「ローリング・ストーン」インタビュー選集

『ローリング・ストーン インタビュー選集』 2008年12月 TOブックス ①
 


 
 
 

フィル・スペクター (インタビュー 1969年11月)
 
(白人経営のアトランティック・レコードで黒人音楽を扱っていたわけだけど)「俺たちのおかげで家が買えたのを忘れるなよ。俺らが稼いだ金で、お前は豪邸に住んでキャデラックに乗っているんだ。俺たちから搾取したんだぞ」ってね。そういう不満の声は最初からあったよ。
 

イギリスの若者には魂があると思う。本物のソウルだ。『世界海戦記』や『ユー・アー・ゼア』なんかの番組を見ると、イギリスの上空を爆撃機が飛んでいて、幼い子供たちが逃げ回っている情景がでてくる。だから今、ポール・マッカートニーが突っ走ってるんじゃないか。
 
 

(手掛けてみたいのは)ボブ・ディランだね。ディランの代表作を録りたい。ディランはいつも歌詞の力だけを頼りにスタジオ入りする。それなりに売れているから問題視されてないだけで、どのレコードも実はきちんとプロデュースされていない。
 

ディランには、レコーディングに関してもっと生きた意見を出してほしい。「ジョン・ウェズリー・ハーディング」だって、俺なら違った感じで録ったよ。彼に充分な時間がないか、プロデューサーが彼の意見に反論したり議論したりする意欲も才能も持ち合わせていないかだね。
 

ポール・マッカートニーとジョン・レノンはかつてないほどのすばらしいロックシンガーといっていい。ロジャース・アンド・ハートやハマースタインやガーシュウィンを全部合わせたような、とにかくものすごい才能のある奴らなんだよ。歌に力がある。
 

(ストーンズについては)今はただ、ヒットする曲を作ってるって感じかな。俺にとっては、貢献っていうのが重要な意味を持つんだ。「サティスファクション」は貢献する曲だった。それ以外にも何曲かある。他とは違う何かを持った曲だ。
 
 
 
 

ジョン・レノン (インタビュー 1971年1月)

これまで書いた中で本物といえる歌は「ヘルプ」とか「ストロベリー・フィールズ」とかごくわずかだ。これらは自分の一部であって常に自分のベスト・ソングだと思ってきた。実体験から書いた曲で、ストーリーをでっちあげたものじゃない。
 

僕たちはパフォーマーだったからね。ミックは違うとか言ってるけど、かつてはリヴァプールやハンブルグとかのダンス・ホールで客を前にすばらしい演奏を披露して、ストレートなロックをやってイギリスでは誰もかなわなかった。でも成功と引き換えに自分たちをダメにしたんだ。
 

ブライアンが死んで、僕たちは崩壊した。(解散の引き金は)ポールが後を引き継いで、僕たちを仕切ったことだろうね。でも、混乱しているバンドをどうやっても仕切れるわけがない。それで空中分解したんだ。
 

(アメリカ進出当時)僕たちはブラック・ミュージックが好きだったのに、当の黒人すらチャック・ベリーとかブルース・シンガーを笑い物にしてたんだ。ファンキー・ミュージックを当の黒人たちがイケてないと思っていた。
 
 
 

「アイム・ア・ルーザー」とか「悲しみはぶっとばせ」とかは、自分をありもしないような状況に置かないで、自分の気持ちを表現しようとしたものだ。それに気づかせてくれたのはディランのおかげだ。彼と話し合ったりしたわけじゃなくて、彼の作品を聴いただけで思い立ったんだ。
 

「サージェント・ペパーズ」よりダブルアルバムの方が好きだと前から言っているのは、そっちの方が僕の曲の出来がいいからだ。自分を出せている分、僕にとってはダブルアルバムに軍配をあげたいね。凝ってるのは好きじゃないけど「ペパーズ」がピークなのは認めるよ。
 

自分たちのバンドを持っていた僕は、ヴォーカルでリーダーだった。ポールと会って、バンドに入れる決意をして、あいつもそう決めた。有能なやつを入れていいものか迷ったよ。バンドを良くするか、お山の大将でいるか。結局バンドの質を高めることにしたんだ。
 

田舎から出て、世界を制覇し、楽しくはあったけど、そこにはまってしまうとがんじがらめで何もできなくなった。ただ旅にでようとしたつもりが、ジャンキーみたいに中毒にはまってしまった。
 
 
 
 

レイ・チャールズ (インタビュー 1973年1月)

フロリダにいたとき、ある小さな雑貨屋のとなりに住んでいたんだ。子どもはソーダ水やキャンディを、大人たちは灯油を買いに来る、そんな店さ。そこにジュークボックスが一台とピアノがあった。店主はウィリー・ビットマンという男でね。
 

ピアノの音が聞こえてくると、僕は店に走っていってスツールの上に飛び乗ってピアノをでたらめに叩いていた。普通は追い出されるのが関の山だろう?でも、ウィリーはそうじゃなかった。だから僕は彼が大好きだったんだ。
 

五歳の誕生日に店にいくと客が何人かいた。「RC」-いつも僕をそう呼んでいたんだ-「さあ、スツールの上に立ってお前の演奏を聞かせてやりな」。でたらめにキーを叩いただけなんだけど、そんなふうに言ってもらえたのはすごく嬉しかったよ。
 

この子は骨の髄から音楽が好きなんだ、ウィリーにはわかっていたんだろうね。言ってる意味がわかるかい?彼がいなけりゃ僕はミュージシャンになってなかったかもしれない。だって、家族が音楽をやっていたわけじゃないからね。忘れられない思い出だ。
 
 
 
 

ブライアン・ウィルソン (インタビュー 1976年11月)

人によって吠えたり、吠えなかったりする犬はヴァイブレーションを感じ取っているらしくて、それは目には見えないけど感じ取ることはできるって言われた。同じものを人間も持っている。
 

グッドなヴァイブレーションって何だろうって話し合った。そこから、曲やアイデアを試してみるうち「彼女の着ているカラフルな服と日差しを浴びた髪が好きだ。彼女のつけた香水の香りを運ぶ穏やかな風の言葉が聞こえる」という言葉がわいてくる。
 

さらに「グッドなヴァイブレーションを感じる」という言葉が口をついて出てくる。このセリフは感覚的なものとは対極の、誰もが持つ六感的感覚というか、そういうものを反映したものだ。まさに、こういうことを僕たちは言いたかったんだ。
 

R&Bでありながら、モダンでアヴァンギャルドなものを加えたかったんだ。「グッドヴァイブレーション」は進歩的なリズム&ブルースだ。
 
 
 
 

ブルース・スプリングスティーン (インタビュー 1992年8月)

「ボーン・イン・ザ・USA」の成功は本当に嬉しかったけど、すべてが終わるころには「ブルース」し尽くしたって感じになった。ある種の偶像をつくり出して、結局それに圧倒されたんだ。
 

ずっと「こんなの、俺じゃない」っていう感じだった。マッチョなイメージなんて、実際の俺とはかけ離れているんだ。子供の頃は本当におとなしくて内向的だった。おかしなもんで、何かをつくり上げると、結局はそれを壊さなきゃならなくなる。
 

だから「トンネル・オブ・ラブ」を書いたときは、俺自身を偶像的な役割を持たないソングライターとして、もう一度世に出さなくてはならないと思った。それで肩の荷が下りる気がした。
 

昔の俺は、ずっと怖がってた。失って傷つくのが嫌で、距離を置いてばかりだった。そうするのはたやすいけど、それでは何も手に入らない。
 
 
 
 

ボノ U2 (インタビュー 2005年11月)

父は、自分が音楽家になりたかった人なのに、僕がミュージシャンになることを応援してくれなかったことで、僕はミュージシャンになった。
 

夢を見ることは失望することだから、大きな夢を持つなと言われて、結果的に僕は大きな夢を持つようになった。
 

ジョンが歌う「オー・マイ・ラブ」は印象的だった。世の中を覆っていたベールがはがされて、目から重石が取れていくさまを歌っているように思えた。愛によって、窓から見える世界がくっきりした別世界になるんだ、あの感じは忘れられないよ。
 

僕が影響を受けた音楽には、神に向かうものと、神に背を向けるものがあった。軸となっているのは、旅の中心に神がいるという認識だ。ブルースは神に背を向ける音楽で、ゴスペルやマイティ・クラウド・オブ・ジョイは神に向かう音楽と言えるね