「知」のソフトウェア(立花隆)

『「知」のソフトウェア』 立花隆 講談社現代新書 (1984年3月) 
 


 
 
 

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雑念を捨て、目の前の文章に精神を集中する。耳には何も聞こえず、文章の意味以外の思念が浮かばない状況にいたると、突然驚くほどのスピードで、目が走っていく。文字を読んでいるのだという自意識が消える。
 

最初に速読を求めてはならない。速読は結果である。むしろ精神集中訓練に役立つのは、きわめて難解な文章の意味をいくら時間がかかってもよいから徹底的に考え抜きながら読むことである。
 

一節の文章を読み解くのに一時間も二時間もかけてもよい。なぜ自分にはこの意味がわからないのかと、自分の頭の悪さに絶望しつつ、それでも決して本を投げ出したりせず、なかば自虐的にとことんしつこく考えて考え抜く。
 
 
 
 

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どうしても新聞を手際よく読めない人は、一ヶ月だけ授業料を払うつもりで、いつも読んでいる新聞以外にあと四紙を一時に購読してみるとよい。消化すべき量に追われて、いやでも早読みできるようになる。
 

私は学生時代に、アルバイトで生活する身でありながら、ペルシャ語を覚えようと一念発起して、イラン人留学生を個人教授に雇ったことがある。その効果は絶大だった。教えてもらう時間を一分一秒も無駄にしまいと必死になって勉強した。
 

一般に本を読んでいてわからないことに出会ったら、すぐに自分の頭の悪さに責を帰さないで、著者の頭が悪いか、著者の説明の仕方が悪いのではないかと疑ってみることが大事である。
 
 
 
 

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新しいことを学ぶときは、よき入門書を手に入れるのが肝要である。第一に、読みやすくわかりやすいこと。第二に、その世界の全体像が適確に伝えられていること。
 

第三に、基礎概念、基礎的方法論が整理されて提示されていること。第四に、さらに上級へ進むためにどう学ぶか、何を読めばよいかが示されていること。
 

入門書を一冊読み終えたら、別の入門書を手にとるべきである。別の見方をすればものが別様に見える。入門期にこの視点を欠き、一生狭い視野しか持てず、頭が硬化したままで終わった人が、高名な学者のなかにも珍しくない。
 
 
 
 

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次に中級書にすすむ。定評、好みとカンを頼りに、何冊かの中級書を仕込み、さらに余裕があれば、高度に専門的ではあるが良書の定評があるものを一冊買う。ときどき開いて、自分にどの程度わかり、どの程度わからないかを見るだけでよい。
 

それが何の役に立つのか。第一に、その世界の奥行の深さを知ることができる。第二に、その奥行の深さを尺度として、自分の知識と理解度をチェックすることができる。第三に、しっかりとした方法論を学ぶことができる。
 

ときどき、初級書、中級書を読んだだけで、専門家はだしの顔をしている人がいるが、そういう人はいずれ大火傷をすることになる。どんな領域でも、プロとアマの間には軽々と越えられない山があり谷がある。
 
 
 
 

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人にものを問うということを、あまり容易に考えてはいけない。人にものを問うときには、必ず、そのことにおいて自分も問われている。質問を投げ返された時「問うことは問われること」という二重構造が表にでてくる。
 

わからないことはわかるまで聞く。後で自分で調べようなどと思わずに、わからないと言ってその場で聞くのがよい。以外に話が面白い方向に発展したりということがよくある。
 

問うべきものを持つとはどういうことか。第一に、知りたい欲求を激しく持つこと。欲求が情熱の域にまで高まっていれば申し分ない。欲求が充分にあれば、さまざまな問いが次から次に自ずから出てくるものだ。
 
 
 
 

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無意識に記憶されているものは、読んだり書いたり、聞いたり話したりするときに、自然に意識の上によみがえる。何かが真に必要とされるときは、目的のものが自然に出てくる。
 

いかにすれば無意識の能力を高めることが出来るのか。できるだけ良質のインプットをできるだけ多量に行うことだ。いい文章が書けるようになりたければ、できるだけいい文章を、できるだけたくさん読むことだ。それ以外に王道はない。
 

いい文章を多く読むうちに、自然に書く文章も上達する。それで上達しなかったら、いい文章を書くことはあきらめる。文章の本質的価値は、いかに書かれているかより、何が書かれているかにあるのだ。