ぼくはマンガ家(手塚治虫)

『ぼくはマンガ家』 手塚治虫
1969年毎日新聞社より刊行、1979年加筆訂正(大和書房)、2000年編纂(角川文庫)、2016年復刊(立東舎文庫)
 
 

 
 
 

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敗戦の年の春、以外な傑作が突如として現れた。「桃太郎 海の神兵」全九巻の文字通りの大作である。制作費27万円、監督瀬尾光世、原画桑田良太郎、音楽古関裕而、作詞サトウ・ハチロー、美術黒崎義介というスタッフは堂々としたものであり、国産動画の総決算といった作品になった。
 

ばくは焼け残った松竹座の、ひえびえとした客席でこれを観た。見ていて泣けてしようがなかった。全編に溢れた叙情性と童心が、希望も夢も消えてミイラのようになってしまったぼくの心を、暖かい光で照らしてくれたのだ。
 

ぼくは誓った。「一生に一本でもいい。どんなに苦労したって、おれの漫画映画をつくって、この感激を子供たちに伝えてやる」。
 

ぼくの漫画映画詣でが始まった。どんな場末のうらぶれた小屋でやっている漫画でも丁寧に探して観にいった。長編「白雪姫」が封切られると、たちまち一財産磨ってしまった。およそ50回は観た。「バンビ」は80回以上観た。朝パンを買って映画館へかけつけ、上映回数分の当日券を買い(毎回入替え制だった)、一日観つづけた。
 
 
 
 

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占領軍がやってきた。「ヤンキーが来たらなぐり殺されるぞ」「女子供は外にでるな」という噂をよそに、彼らはやってきた。ジープに乗り、軍服をスマートに着こなし、すこぶるかっこよく彼らはやってきた。現金なもので、相手が危険なものでないとわかると、大衆はやたらにべたべたしだした。
 

「XXXXX」と兵隊がぼくに何か尋ねた。「敵性語」ということで英語の授業を中断されたぼくにとっては、まったくチンプンカンプンである。「ホワット?ホワット?」と訊き返すのがせいいっぱいだった。するとたちまち、ボカーッとなぐられて地面に叩きつけられた。
 

ウワッハハハ・・・笑い飛ばして米兵は行ってしまった。手も足もでない。占領軍に反抗すれば、射殺されても文句が言えない時代なのである。腹立たしいやら口惜しいやら、意思の疎通の欠如を、ぼくはひどく呪った。
 

当分のあいだ、この厭な思い出はぼくから頑強に離れず、しぜん、ぼくの漫画のテーマに、そのパロディがやたらと現れた。地球人と宇宙人の軋轢、異民族間のトラブル、人間と動物の誤解、そして、ロボットと人間の悲劇、アトムのテーマがこれなのである
 
 
 
 

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従来の漫画は「のらくろ」にしても何にしても、だいたい平面図的な視点で、舞台劇的に描かれたものがほとんどだった。ステージの上で、上手下手から役者が出てきてやりとりするのを、観客の目から見た構図であった。これでは迫力も心理的描写も生み出せないと悟ったので、映画的手法を構図に取り入れることにした。
 

そのお手本は、学生時代に見たドイツ映画やフランス映画であった。クローズアップやアングルの工夫はもちろん、アクションシーンやクライマックスには従来一コマで済ませていたものを、何コマも何ぺージも克明に動きや顔をとらえて描いてみた。たちまち五百、六百ページから千ページを超えた大長編が出来上がった。
 

また、オチがついて笑わせるだけが漫画の能ではないと思い、泣きや悲しみ、怒りや憎しみのテーマを使い、ラスト必ずしもハッピー・エンドでない物語を作った。ある作品のプロローグには「これは漫画に非ず、小説に非ず」と断り書きまでしておいた。
 

昭和二十二年一月にこれ(「新宝島」)が発表されると、その途端、あっけにとられるくらいのスピードで売り切れた。出版元では重版につぐ重版で三、四十万部も刷り、笑いが止まらなかっただろう。売れているというニュースに欣喜雀躍(きんきじゃくやく)して、毎日、デパートの書籍売場へ見に言った。
 
 
 
 

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「手塚さんは、子供を、いったいどのように把握しているのですか?子供をよく知っていなければ描けないはずです」。こういう質問がやたら来るものだ。たしかにぼくたちにとって、子供は得体の知れぬ怪物に見えるが、ぼくらも親からみれば怪物だったかもしれないのである。
 

ぼくなどは、一思いに三十も歳の違う子供の中へとび込んであたふたとするよりも、せめてぼくらと同じおとなで、しかも最もこどもの年齢に近いかけ出しの漫画家の研究をしてみる。少なくとも彼らは、ぼくらよりも現代っ子の心理に近い何かの要素をつかんでいるはずなのである。
 

かけ出しの子供漫画家は絵も拙く、表現も生硬(せいこう/未熟なこと)だが、感覚だけが強烈な武器なのだ。新人が案外、子供の票を集めるのはこの武器あるがゆえにだが、自分の実力と思っていると、そのうちに感覚が古くなって没落する。子供漫画家の新陳代謝がはげしいのは、こういうわけなのだ。
 
 
 
 

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昭和25年、とつぜん朝鮮戦争が勃発した。もう戦争はたくさんだ。結局、人間みんなが大損じゃないかというやりきれない気分で、「メトロポリス」と「来たるべき世界」を描いた。

まがりなりにも日本が講和条約に調印したので「来たるべき世界」のラストも大団円にし、「もし人類が再び過ちをくり返すならば、危機はまたやってくる」といった意味のきざな警告を付け加えた。こういう、きざなしめくくりが、学生にはわりと受けるのだった。
 

「来るべき世界」は原稿にして一千ぺージ近く描き、それを出版の都合で三百ページ足らずに縮めなければならなかったが、ぼくはもっと大長編をつくりたかった。何年か前に白いライオンのアイデアがあったのを思い出し、アフリカを舞台に動物ものをやってみようと想いついた。
 

それは長編などというより、大河ドラマに近い構想だった。まだだれも漫画で大河ドラマはやったことがない。何千ぺージになるかわからないが、覚悟を決めてたっぷり一年間、図書館通いをした。アフリカの資料を片っぱしから読み漁った。

さて、ライオンの話に大陸移動説をくっつけ、その上に、当時としては画期的にデタラメな、月の誕生の話しをでっちあげた。こうして構想ができあがると、タイトルを「ジャングル大帝」とした。
 
 
 
 

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ぼくは持ち合わせた「ジャングル大帝」の原稿を出すと、加藤氏は鷹のような目でそれを読んでいたが「これをうちに掲載しませんか」と」いった。「でも、こういう長編ですし・・」「いいじゃないですか。うちも短編のユーモア漫画ばかり並べているわけにもいかない。(略)長編連載のつもりでいてください」。
 

ぼくは、一も二もなく承諾した。当時「漫画少年」といえば漫画家志望者にとっては”道標”のような存在で、ここに載ることは”紅白歌合戦”に出場する歌手くらいのハクがついたものである。ぼくは帰阪するなり「ジャングル大帝」の一回目の執筆にとりかかった。
 

第二回目は十ページで扉がついた。たいへん破格なことであった。この二回目の話の中に主人公のライオンのレオが母親と別れて、荒海の中に飛び込むシーンがある。加藤氏から長い手紙が来て、とてもよいと賞めてあった。加藤氏の手紙はいつも、巻紙で懇切丁寧に書かれており、それが、僕にとって肉親以上の励ましの言葉になるのだった。
 

それ以来、学童社がなくなるまで、ぼくは上京のたびに、学童社がねぐらのようになってしまった。ボストンバッグを下げて東京駅から直行するのはここで、加藤氏の姿がそこにないと心が休まらなかった。親のように甘えた気分になり、いろいろわがまま放題に振舞まった。
 
 
 
 

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小野寺章太郎という天才的な少年の絵に触れたのは「漫画少年」の投稿漫画であった。当時中学生ぐらいだったと思うが、動物漫画でずば抜けたデッサンの投稿があり、編集部で話題になっていた。バッチリした四コマものを次々に送ってきたが、どれも動物ものだった。
 

やがて、思い切って連載を書かせては、ということになりデビュー作「二級天使」が送られてきた。ははあ、彼もディズニーにいかれているな、と原稿を見た途端に思った。回を追うごとに彼の筆力に舌をまき、ぼくは、この男に仕事を手伝ってほしいと思うようになった。
 

かれに「アトム」に一部の背景を描いてほしいと頼んだら、かれはていねいに人物まで入れて送ってくれた。それがまたものすごくていねいで、なぐり描きに近いぼくの原稿の間にそれが入ると、そこだけ目立って困った。かれもすまいを東京に移し、石森章太郎と名乗った。
 
 
 
 

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「漫画少年」の紹介で、ぼくは豊島区椎名町にあるトキワ荘というアパートに移った。いちばんはずれの部屋に吹きこんだ風が、反対側の部屋まで通り抜けるようなおソマツなものだった。
 

ぼくの部屋がそのいちばん反対側にあったため、どこかの部屋でカレイの煮つけを食べればその匂いが、隣になまめかしい女の来客があれば、なまめかしい匂いがしのびこんできた。ぼくはその都度、腹の虫を鳴らしたり、のたうちまわったりしなければならず、まったく閉口した。
 

昭和29年に、ぼくは年間所得額が画家の部でトップになったとかで、週刊誌の記者がトキワ荘にインタビューに来た。(略)彼の書いた記事によると「この百万長者の部屋はガタピシしたアパートの、机に本棚だけといっていい六畳間」と書かれてあった。
 

トキワ荘にぼくがはいってから1年ほどして、やはり漫画少年の紹介で、寺田ヒロオ氏が入ってきた。やがて、藤子氏がトキワ荘へ移ってきた。石森氏もやってきた。そのころにはぼくはもうトキワ荘にはいなかったのだが、赤塚不二夫、森安直哉、水野英子さんまでトキワ荘に入った。トキワ荘はまるで若手漫画家の梁山泊の様相を呈した。
 
 
 
 

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(昭和34年頃)ぼくは、たしかに気がイラダっていた。十何年も漫画を描いているうちに自分の作品にはっきりマンネリズムを意識しだした。しかも、かつてのぼくの商売敵は、ひとりのこらず第一線から消えてしまい、当面のライバルはぼくの本を少年時代に読んだ若手の連中に交替していた。
 

漫画家として長く残れば残るほど、新旧にギャップを激しく意識し、時代感覚のずれを自ら認めざるを得ないのである。横山光輝氏の「鉄人28号」、桑田次郎氏の「まぼろし探偵」(略)など人気漫画が出るごとに、ああ、また若手に追い抜かれたかという思いに駆られ、猛烈に悲観し、頭を抱えて転げまわった。
 

アシスタントをつかまえては、「え、どうだ、おれの絵、このごろどう思う?古くないか?マンネリか?見飽きたか?おれの絵はもうおしまいなのか?」と訊いて回った。アシスタント連中は無情なもので「はあ、近ごろは、どうも魅力がありませんね」と、いやにはっきり答える。
 

こうしてぼくのフラストレーションは高揚し、やたらと人に当たり散らし、女房とぶつかる。こうした発作は、躁鬱病のように数年おきにやってきた。その都度、気分転換と打開のために、なにか別のものに手を出し、それに熱中することで気を紛らせることにした。