『イノベーションのジレンマ』クレイトン・クリステンセン 2000年1月 翔泳社
成功した会社はさらなる上位の市場を目指し、顧客の意見を聞き製品の性能を向上させ、市場調査を行い高利益の分野へと資本を投資する。つまり、市場の小さな変化を見逃しやすい。
破壊的技術は低価格で小さな市場(主流とは違う市場)で使われ始め、やがて主流の製品以上の技術や主流製品以上の利便性を獲得する。破壊的な技術が主流となったとき、成功していた企業は成長しない市場に投資を続けるということになる。
成功していた企業が、新しい市場に参入しようとすると、一つの企業(組織)のなかで二つのコスト構造、二つの収益モデルを共存させることになる。主流事業の競争力を維持したまま、同時に破壊的技術も追及する努力はめったに成功しない。
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60年代、70年代の日本の驚異的な経済成長を支えてきた産業のほとんどが、欧米の競合相手にとって破壊的技術であった。
ソニーを始めとする日本の家電メーカーは、低価格、低品質の携帯用ラジオ、テレビによってアメリカ市場の最下層を攻撃した。その後も容赦なく上位市場へ移行しつづけ、世界最高の品質を誇る家電メーカーとなった。
優れた経営者は、市場の中でも高品質、高収益率の分野へ会社を導くことができる。しかし、会社を下位市場へ導くことはできない。日本の大企業は、世界中の大企業と同様、市場の最上層まで上り詰めて行き場をなくした。
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新技術のほとんどは、製品の性能を高めるたのものである。これを「持続的技術」と呼ぶ。あらゆる持続的技術に共通するのは、主要市場のメイン顧客が既存の性能評価で評価すると、性能が向上する点である。個々の業界における技術的進歩は、持続的な性質のものがほとんどである。
確実な市場調査と綿密な計画のあとで計画通りに実行することが、優れた経営の特徴である。このような慣行は持続的イノベーションにおいて計り知れない価値がある。しかし、新しい市場につながる破壊的技術を扱う際には、市場調査と事業計画が役にたった実績はほとんどない。
破壊的技術は、当初は(市場調査に現れない)主流から離れた小規模な市場でしか使われないが、いずれ主流市場で確立された製品に対抗しうる性能を身につける点が、破壊的たるゆえんである。
優良企業が成功するのは、顧客の声に鋭敏に耳を傾け、顧客の次世代の要望に応えるように積極的に技術、製品、生産設備に投資するためだ。しかし、逆説的だが、その後優良企業が失敗するのも同じ理由からだ。ここに、イノベーターのジレンマの一端がある。
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企業はバリュー・ネットワークの中に組み込まれている。企業の製品は、ほかの製品の中に、ひいては最終利用システムのなかに構成要因として組み込まれ、階層構造になっているからである。
たとえば、ディスク・ドライブの設計と組立を行うような企業は、磁気ヘッドを製造する会社から磁気ヘッドを調達し、別の企業からディスクを購入し、さらに他の企業からスピン・モーター、アクチュエーター・モーター、ICを購入する。
一つ上の階層ではコンピューターの設計と組立を行う企業が、IC、端末、ディスク・ドライブ、チップセット、電源などをそれぞれの製品のメーカーから購入する。このような入れ子構造になった商業システムを「バリュー・ネットワーク」という。
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「資源依存」という理論は、企業の行動の自由は、企業存続のために必要な資源を提供する社外の存在(主に顧客と投資家)のニーズを満たす範囲に限定されるという主張である。
資源依存論者は、生物学的発展の概念を根拠として、組織のスタッフとシステムが、顧客や投資家が求める製品、サービス、利益を提供し、そのニーズを満たした場合にのみ、組織は存続し、繁栄すると主張する。ニーズに応えない組織は衰退し、存続に必要な収入を得られない。
それでは顧客が明らかに求めていない破壊的技術が出現したとき、経営者はどうするべきであるか。その方法は、独立した組織をつくり、その技術を必要とする新しい顧客のなかで活動させることである。
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コンピューター業界の最初のリーダーであるIBMはメインフレーム(日本では汎用機)を販売していた。ミニコン(日本ではオフコン)の登場は、IBMとその競争相手にとっては破壊的技術であるが、これらの企業の顧客はミニコンを必要としなかった。
メインフレームのメーカーは何年もミニコンを無視し、DEC、データ・ゼネラル、プライムなどの新規参入企業が市場を開拓し、支配するの放っておいた。IBMはミニコンの機能が進化し、顧客の一部の需要を満たすほどの競争力を備えるようになったため、防衛手段として独自のミニコン製品を発表した。
同様に、ミニコンメーカーにとってもパソコンは破壊的技術だったため、一社もデスクトップ・パソコン市場の重要な勢力にはならなかった。パソコン市場を築いたのは、アップル、コモドール、タンディ、IBMなどの別の新規参入企業グループである。
80年代になると、パソコンの技術の軌跡が、それまでミニコンを買っていた層の性能需要と交わるようになる。下位市場からのパソコンの攻撃はミサイルのようで、すべてのミニコン・メーカーに重症を負わせ、数社は倒産し、パソコンのバリュー・ネットワークで地位を築いた企業は一社もない。
DECは、主流組織のなかからデスクトップ・パソコン市場に参入しようとしたため、二つのバリューネットワークと二つの異なるコスト構造を両立させなければならなかった。同社は高性能製品で競争力を保つためコストが必要だったので、下位のパソコン市場で競争力を保てるほど間接費を削ることができなかった。
たいていの経営者はDECと同じことをやろうとする。主流事業の競争力を維持したまま、同時に破壊的技術も追及しようとする。このような努力がめったに成功しないことは、過去の例が物語っている。適切なバリュー・ネットワークに組み込まれた別々の組織で、別々の顧客を管理しなければ、市場での地位生は守れない。
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インテルの創業メンバーは、メタル・オン・シリコン(MOS)技術の先駆的開発をもとに、1969年に会社を設立し世界最初のダイナミック・ランダム・アクセス・メモリー(DRAM)を生産した。同社は1995年には、世界の大企業のなかでも極めて高い収益率を誇っている。
インテルは、最初に築いたDRAM市場でのリーダーの地位が、1978年から86年にかけて、日本の半導体メーカーの襲撃によって崩れ始めたとき、二流のDRAMメーカーから世界最大のマイクロプロセッサー・メーカーへと変容した。
インテルは、日本の計算機メーカーとの請負開発契約にもとづき、最初のマイクロプロセッサー(4004)を開発した。プロジェクトが完了したとき、インテルの技術チームは、契約条件にもとづいて特許権を所有していた計算機メーカーから、特許を買い取るように経営陣を説得した。
インテルには、この新しいマイクロプロセッサーの市場を開拓する明確な戦略があったわけではない。チップを使えそうな相手ならだれにでも売っていたのだ。
マイクロプロセッサーは、今でこそ主流のようだが、当初は破壊的技術だった。60年代の大型コンピューターの中央演算装置を構成していた複雑な論理回路に比べれば限られた機能しかなかったが、サイズが小さく単純だったので、以前は利用できなかった用途で論理と計算を利用できた。
インテルの生産能力配分システムは、製品ごとの粗利益率に応じて能力を配分していた。いつのまにか、設備投資や生産能力は、DRAMよりマイクロプロセッサー事業に向けられるようになったが、DRAM事業からの撤退がはじまっているなかでも、経営陣は注意とエネルギーをDRAMに注ぎ続けた。
インテルの共同経営者ゴードン・ムーアは、IBMがインテル8088を新しいパソコンの頭脳として選択したことが、社内では「小さなデザインの勝利」と見られていたという。IBMがパソコンで成功を収めた後も、インテルの次世代チップの潜在用途予測50種のリストにパソコンは含まれていない。
破壊的技術のマイクロプロセッサーがどこで使われるかに関するインテルの予想の多くは間違っていた。さいわい、インテルは、正しい市場の方向がまだわからないうちに、誤った方向のマーケティング計画に全ての資源を使いきらなかった。会社としてインテルは生き残った。
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北米オートバイ市場への参入方法に関するホンダの当初のアイデアは間違っていたが、大型バイク戦略の追求にすべての資源を投入しなかったため、正しい戦略(小型バイク戦略)が見えはじめてから、そこへ積極的に投資することができた。
ホンダの北米市場での経験が示すように、破壊的技術の市場は、計画システムでは上層部の注目を集めることのない、予想外の成功から現れることがある。そのような発見は人々の声に耳を傾けることによってではなく、人々がどのように製品を使うかを見ることによって得られることがある。
破壊的技術の新しい市場を発見するためのこのアプローチを、筆者は「不可知論的マーケティング」と呼んでいる。
破壊的製品がどのように、どれだけの量使われるか、そもそも使われるかどうかは、使ってみるまで誰にも、自分自身にも顧客にもわからない、との明確な仮定にもとづくマーケティングという意味である。
不透明な状況に直面したマネージャーは、誰かが市場の輪郭をはっきりさせるまで待とうとする。
しかし、先駆者が圧倒的な優位に立つことを考えると、破壊的技術に直面したら、実験室やフォーカス・グループで活動するのではなく、市場へ発見思考の探索に出かけ、新しい顧客と新しい用途に関する知識を直接身につける必要がある。