『カリスマ – 中内功とダイエーの「戦後」(上)』 1998年7月 佐野眞一 日経BP社
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「戦後、神戸から出て大きくなったのは山口組とダイエーだけや」。その言葉通り、戦後フィリピンの戦場から飢えと怒り、人間存在の底知れぬ不条理を背負って復員してきた中内は、神戸の闇市から出発し、たちまち日本一の小売業者にのし上がった。
「もう従来型のGMS(総合スーパー)をやろうとは考えていない。今のGMSは”何でもあって何も買いたくない店”の代名詞になっている。これからは大規模店は百貨店に準ずる品揃をし、小規模店は食品スーパーに切り替えていく」。
1997年時、ダイエーの有利子負債を元銀行幹部は三兆円と断定的にいった。三兆円という数字は、整備新幹線3ルートを完成させ、関西新空港を開港させ、さらには明石大橋を三本架橋しても、まだ百億円のおつりがくるほど巨額ということだ。
業績悪化を受け、記者から引退の質問がでた。「キミは何を言うとるんだ。日本の流通業をつくってきたのは誰やと思っとるんや。ボクが日本の流通業の歴史や。そのボクが多少業績が悪いからといって、敵前逃亡するようなことができるか」。
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神戸三中の同期で山内製薬会長の森岡茂夫はいう。「戦後、中内君が華々しく出てきたとき、三中時代一緒だったあの中内君とはとても思えませんでした。彼はまったく目立ちませんでしたから。やはりフィリピンでの苛酷な戦争体験が彼を生んだんだと思います」。
日本兵はガソリンの一滴は血の一滴と教え込まれていたが、中内らが食糧調達のため敵陣に切り込むと、アメリカ軍はガソリン発動機でアイスクリームをつくっていた。
中内は飢餓線上のギリギリの状況のなかで”戦後”に向かう新しい人格を間違いなくつくり上げた。フィリピンのジャングルに消えていった中内と、ジャングルから出て着た中内とは、まったくの別人だった。
「すぐに死んだ兵士の靴をぬがし、自分のととっかえて履くんですわ。古くなった自分の靴は水洗いして小さく刻み、飯盒で煮て食べる。飯盒を失ってからは、水に浸してガムのように噛みつづけました」。中内の歯がすべて入れ歯なのはこのとき軍靴を噛みつづけたためだ。
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復員した中内は神戸に着いた。高架のホームから眺めると、一面の焼野原だった。三宮駅から神戸駅までの約2キロメートルに及ぶ闇市には、バラック建ての露店が七百軒あまり軒を連ね、地をはう百貨店、日本一長い百貨店といわれた。
1948年に生まれた「友愛薬局」なる薬品問屋では、その当時、ペニシリンは三、四千円の値段をつけても飛ぶように売れた。共同経営者の井生はいう。「中内君が家から薬剤を調合する精密ハカリを持ってきて、それに札束を乗っけて一日の売上を計った」。
中内は「サカエ薬品」で現金仕入商売をはじめて現金の力を知った。「胴巻きにありったけの現金を詰め込んでどこにでも行った。業界筋から手配書が回りはじめたが、ワシの後には大阪中の消費者がついているんや、トコトン勝負したろやないかと、安売り屋として生きていく腹が決まった」。
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1957年9月、ダイエー第一号店は大阪・千林にオープンした。初日の売上は28万円。千林の繁盛店でも1日1万円の売上は至難とされていた。終日、客はひきもきらず、従業員が客にはじかれ、店内にいれなかった。
1959年神戸・三宮に二号店が開店した。ダイエーは安売りに抗議する問屋やメーカーに対し事務所に貼り紙をして自らの姿勢を示した。「日用の生活必需品を最低の値段で消費者に提供するのに、商人が精魂傾けて努力し、商品の売価を最低にできたという事が何で悪いのであろうか」。
1962年、ダイエーは大卒の定期採用に踏み切り、63年には、ダイエーの一大配送基地となる西宮本部を完成させた。同年、中内ダイエーは関西を離れ福岡天神店のオープンを皮切りに、全国制覇をめざし、破竹の進撃を開始していった。
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日本能率協会編集部の田島は「サカエ薬品」他を取材し「マネジメント」にレポートを載せた。マスプロ(大量生産)をマスコミ(大量宣伝)によってマスセールス(大量販売)する、というこのレポートはいま読んでも古びていない。
ダイエー中内の出店はひたすら戦闘的である。「踏みつぶしたるわ」といって出店し「逆らうモンはみんな息の根とめたる」といって出店する。イトーヨーカ堂の伊藤は「おさわがせしてスミマセン」といって出店し「地元の皆様のおかげです」といって出店する。ひたすら恭順的である。
田島はいう。「価格破壊や、メーカーからの価格支配権の奪取、という理念的基盤は中内が日本の流通業に残した最大の功績です。中内さんは偉大な革命児に違いないが、技術的基盤においてはイトーヨーカ堂の伊藤さんや鈴木雅文さんに遅れをとった」。
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1960年、総理大臣のポストについた池田隼人は、所得倍増論により60年の所得を、10年後の70年に倍にするという。国民のほとんどが「ウソだ」と首をかしげたが、10年どころか7年後の67年には2万4千円の平均給与が、4万8千円にハネ上がった。
大卒三期生65年入社の平山敞はいう。「入社した年頭の挨拶で今年は一日一億円の売上を目標にしようといわれビックリした。ところが、それがあっという間に実現した。そして年商千億が目標になり、五千億が目標になった。一兆円の達成まで信じられないほどのスピードでした」。
高度成長時代とは、野心をもった企業家たちにとって誰も行く手を阻むことのない無人の荒野だった。この時代、日本列島のなかには、無数の中内たちがそれぞれの野望をたぎらせて蟠踞(ばんきょ)していた。