『カリスマ – 中内功とダイエーの「戦後」(下)』 1998年7月 佐野眞一 日経BP社
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「松下電気はナショナル帝国が完成すれば混乱は起きないと考えているようだが、これは寡占メーカーの論理だ。いったん販売小売の所有に帰した販売価格と販売方法は所有者である販売小売が決定する。いまこそ、消費者、流通業者、生産者の三権分立が必要だ」。
(松下電器は秘密番号をつけて、流通経路をチェックしている)「そういうことを中内さんが発表したんですな。われわれは常日ごろ、たくさんある小売が成り立つようにやらないかんと考えているんです。それを無視したやり方は、止めないかんです。
一方、中内さんは『そやない』と。一般大衆を便利にしたらええ。小売業者が一つの社会を成しとっても、その社会がつぶれてもええ。新しい小売の社会をつくったらええ。これが中内さんの考え方やね(松下幸之助)」。
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69年、三井物産系列の会社からダイエー入りした大川が、中内に仕えて一番驚かされたことは、在庫を前にしてこう怒鳴ったことだ。「この在庫に保険はかかっているか?かかっているなら今すぐ火をつけてこい!」。
ある日、中内に呼ばれて会議に臨んだ幹部は、中内からこう言われた。「生命保険に入っているか?入っているなら、いますぐこのビルから飛び降りろ!」。
「それから間もなく、中内さんから一杯誘われました。中内さんは私の猪口に酌をしながら『この前は言いすぎた。堪忍してくれや』と言って頭を下げました。ムラムラしていた気持ちがスーと消え、それどころか、この人のためにもうひと頑張りしなければと思うようになっているんです」。
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中内ダイエーは快進撃を続けた。1972年、ダイエーはついに小売業界の王者といわれた三越を抜き、日本一の小売業の王座についた。創業十五年の企業が1359億円の売り上げをあげ、創業三百年の三越の売り上げを54億円上回ったのである。
その前年の3月、中内ダイエーは大阪証券取引所の第二部に上場していた。スーパー業界初の上場だった。これにより、かつて「スーッと現れてパーッと消える」と揶揄されたスーパーは、産業としての地位を名実ともに確立することになった。
あるダイエーの元幹部によれば、中内は上場で得た30億円のキャピタルゲインを現金化して芦屋の自宅へ運ばせ、その現金を倦くことなく眺めていたという。この元幹部は、中内さんはあの時から完全に人が変わった、と言った。
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70年代初頭、セブン-イレブンの親会社サウスランド社との提携話が伊藤忠を通じてダイエーに持ち込まれた。中内はアメリカのセブン-イレブンを実際にみて「こんなちっぽけな店に十億円以上のフィーを払うなんて割に合わん」とこの話をけってしまう。
サウスランド社はイトーヨーカ堂との交渉に入った。零細小売店と共存共栄のビジネスを始めなければ、地元商店街の反対でスーパー自体が早晩立ちゆかなくなる、危機感を抱く鈴木はオーナーの伊藤を粘り強く説得し、伊藤はこの提携話に渋々OKのサインを出した。
「大欲」の伊藤は、側に抱えた鈴木をとうとうグループ最大の稼ぎ手に仕上げてしまった。「強欲」の中内は、ロイヤリティーを惜しんだばかりにコンビニ分野への出店が遅れたばかりでなく、彼の側には一人の鈴木も育たなかった。
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1980年2月中内ダイエーは小売業界初の売上高一兆円を達成した。集計センターに用意された紙製の大太鼓の皮を打ち破ると、そこにはあばれたような文字でこんな文句が書かれていた。「昭和60年度ダイエーグループ売上高目標!四兆円」。
1979年、第二次オイルショックから日本経済は戦後最長の不況に見舞われる。一兆円達成のわずか三年後の83年、中内ダイエーは連結決算で65億円の赤字を出した。直接の原因は、プランタン銀座、クラウン、ビックエーという提携した子会社の業績不振である。
中内は会議室に集めた幹部社員の前で「どうかもう一度、オレを男にしてくれ、オレを助けてくれ」と号泣した。これが副社長河島博を指揮官とする”V革”の始まりだった。
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1989年ダイエーホークスがスタートした年、中内は博多で最もにぎあう山笠の山の上にハッピ姿の勇ましいいでたちで乗った。「西武の堤さんが来ても、三越の社長がきても山笠には乗せません。博多を復興させようとする中内社長だったからこそ担いだ」。
キャナルシティ内を流れる運河は中内の発案で、当初は近くを流れる一級河川の那珂川の堤防を切ってつなげ、ゴンドラを浮かべるというものだった。博多にベニスの街を再現するというアイディアであった。
1995年地震直後の神戸を取材中、店は閉まっているのに明かりだけはついたローソンの店をよく見かけた。廃墟の暗闇に浮かぶコンビニは悲惨な現場ばかりを見て、冷えきり、ささくれだった心をそれだけであたたかくつつんでくれるような気がした。この措置は中内の命令によるものだった。
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消費者の味方として、「安売り哲学」を呼号した彼が、今や一転して流通界の覇者として、実は飽きることのない拡大主義の事業家となって、田園調布に豪邸を建て、旧財閥と閨閥(けいばつ)関係を結び、華麗なる一族に変身しつつある。
これまでの彼の大衆寄り、消費者寄りのポーズが、実は事業家の「偽装」や「嘘」であるとしたならば、恐竜のような巨大組織ダイエーは遠からず、消費者、大衆からその存在価値を否定される運命に遭遇するにちがいない。(『実録・井植学校』林辰彦)
城南電機社長「安売り王」宮路年雄が中内ダイエーについていった言葉を思い出す。「あれは消費者の敵や。客に現金で買わせ、仕入れに手形を使う。その差益と金利を原資に消費者金融という金貸しをしてなんで消費者の味方なんや」。
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日本企業の総資産が800兆円を突破し、その土地資産だけでアメリカの国土が四つ買えるといわれたバブルの時代、巨額のジャパンマネーがアメリカを襲い、猛威をふるった。
この時代、西武セゾングループは世界的なホテルチェーン「インターコンチネンタルホテル」を買収し、ソニーは「コロムビア・ピクチャーズ」を取得、三菱地所はニューヨークのロックフェラーセンタービルを買い取った、中内ダイエーもまた、ハワイにある世界有数のショッピングセンター、アラモアナ・SCを取得した。
その夢が覚めたのが、バブル崩壊という現象だった。バブルが経済戦争における未曾有の大勝利だったとするなら、バブル崩壊による「第二の敗戦」が未曾有の大不況の様相を呈しているのは、至極当然の成り行きだった。
欲しいものは何でも手に入れる。それが中内ダイエーのたったひとつの「経営戦略」だった。それはそのまま、われわれ戦後消費者の欲望の写し絵だった。極言するなら、欲しいものが何もなくなったと感じる「成熟社会」が中内ダイエーの息の根を止めた。