ジャパン・アズ・ナンバーワン

『ジャパン・アズ・ナンバーワン』 エズラ・F・ヴォーゲル 1979年 株式会社TBSブリタニカ
 
 

 
 
 

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ハーバード大学社会学科で博士号を取得した私が、研究の第一歩として、その研究対象として日本を選んだのは近代国家のなかで日本が最も異質であり、したがって近代社会についての仮説を検証するのにいちばん問題を提起しそうな国だと思ったからである。
 

最初の研究に着手してから20年間というもの、日本の社会に対する私の好奇心は湧き上がる泉のごとくで、決して涸れることはなかった。
 

日本の不可思議な面、微妙な点、隠された面が次々に浮かび上がり、しかもそれが絶えざる変化を見せることは、私の知的好奇心にとっては掘ってもつきない黄金の鉱脈を掘り当てたようなものだった。
 
 
 
 

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日本では過去110年の間に二度も制度の大点検が行われている。第一回目は1868年である。日本は政治、経済、教育、軍事、そして芸術の各分野において、それぞれ最良の制度を求め、20年がかりでその研究にとりかかった。
 

第二回目の改革は第二次世界大戦直後である。連合軍の占領政策のもとで、日本は民主化のための大改革を行った。占領は1952年に終わったが、その後も日本人は改善の努力を続けた。特に、立ち遅れていた商工業の分野の近代化には力が注がれた。
 

こうした二度の制度改革のいずれの場合においても、指導者たちは、日本をとりまく情勢と、これまでの伝統の最も適したものを採択しようと努力した。その結果生まれた制度は基本的には、日本古来のものよりむしろ外国の制度に類似している。
 
 
 
 

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ダニエル・ベルやピーター・ドラッカーが脱工業化社会の到来に注目し、これを知識が資本に代わって社会の最も大切な資源となる時代だと表現したが、この新しい概念は、日本の指導者層に熱狂的に迎えられたものである。
 

学ぶことに熱心な日本人の傾向は、集団性の中に根差している。これは、マス・メディアの状況に最も明瞭にあらわれている。スポーツ誌、大人のためのマンガ、何種類かの週刊誌、いくつかのテレビ番組は娯楽中心であるが、新聞、雑誌、テレビ番組などは多量の知識や情報を送りこむことを目的としている。
 

最近では農民や自営業の人たちのための特別番組とか、いろいろな年齢の子供を抱えた母親のための番組が放送され、こうした教育番組では、しばしば数字、グラフ、イラストなどで説明されるが、アメリカなら、このような番組は普通面白くないとして見向きもされない類のものである。
 

たとえば、1960年代後半にコンピューターの講座が組まれたが、これは実に高い視聴率を獲得し、このテキストは1年間になんと100万部も売れた。民間テレビ局でも情報を提供する教養番組を組んでいるし、日に何本かは外国の番組を日本語に吹き換えて放送している。
 
 
 
 

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19世紀の後半、明治時代の初め、明治政府は近代国家を構築するにあたり海外にいくつもの調査団を派遣し、諸外国の政治や社会を研究させ、そのなかから最良と思われる憲法、軍隊、産業、科学、技術、農業を採用した。
 

この伝統を引く日本の現政府は、戦後もさまざまな分野にわたり調査団を海外に送った。哲学、政治、原子物理学からおもちゃの製造法、ビジネス管理法、家庭経済、医学、ジャズにいたるまで、学ぶ分野が広がれば広がるほど、情報を獲得する過程にますます念が入るようになってきた。
 

日本政府が海外研修に人を派遣する場合、若い大学の学生ではなく、すでに官庁に入って一、二年経験した若いエリート官僚を対象とする。官僚は引退するまで同じ官庁に努めるので、将来責任ある仕事をする準備として特別な研修をさせることは官庁にとっても割が合うことなのだ。
 
 
 
 

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アメリカでは第二次世界大戦以降、国家予算の多くの部分が軍事費に当てられてきた。しかし、日本では防衛費はGNPの1%以下であり、防衛に関する関心も薄い。
 

国土の狭い日本は、核兵器に見舞われたらひとたまりもない。したがって、かえって兵器を持った方が危険を招きやすいと、日本の軍事専門家は考えたのである。攻撃的武器の保持を禁止し、国外に駐留軍を置くことを禁止すると憲法で定めた国は、世界の主要国家のなかでは日本だけである。
 

むしろ彼らは、諸外国と友好関係を保って資源を確保するほうが確実に日本の安全を保障すると考えている。ある意味では日本の防衛政策は軍事強国たることなしに、強国たらんとする大胆な試みである。この政策が陰に陽に民間企業の経済活動を助けることになっている。
 
 
 
 

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経済成長に関して最大のイニシアチブを発揮するのは通産省である。通産省はきわめて熱心に産業界の面倒を見るので、「教育ママ」という異名があるほどである。
 

1960年代後半に賃金が西欧諸国に追いついたとき、通産省は労働集約型産業よりも資本集約型産業に資本を集中しようとした。73年のオイル・ショック以降はエネルギー消費型の産業よりも、サービス産業や情報・知識産業の重点をおく政策を推進しようとした。
 

実現可能な目標を設定し、きめ細かな指導を行うために、通産官僚は膨大な量の資料に目を通す。彼らは、経済・技術・実業界などすべての分野における外国の発展と動向に常に注意を怠らない。
 

企業は官庁と接触を持ち、援助を受けやすくするため、官庁出身者を幹部に迎える。しかし彼らの役目は限られており、いわばオーケストラの指揮者のようなもので、結果としてよい音楽ができあがるように心を砕き、全体が調和よく演奏できるように個々の演奏者に助言するのである。
 
 
 
 

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日本では町、村、職場などいかなる集団も、指導者はその構成員の期待にそうように努力し、集団に対する忠誠心を維持する。子供たちは社会のために協力することの大切さを早くから教えられる。大人も利己的な考え方を抑制することが全体の利益につながると認識し、集団の要請に従って行動する。
 

日本人は、たとえ複数の集団に所属していても、その中でいわば丸抱え集団とでもいうべき一つの基本集団に依存し、その関係を最も大切にしている。この丸抱え集団においては、公私両面にわたって徹底的に面倒をみるというような人間関係が成立している。
 

日本人の集団行動は、一般的に情緒的で感情的な傾向が強く、送別会、忘年会と何かにつけて集まっては一緒に酒を飲み、歌を歌い、また記念写真を撮るといった具合である。そして、このような活動を通して、人間関係の強い絆が生まれてくるのも事実である。
 
 
 
 

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日本の挑戦に対しアメリカは十分な対応を示さなかった。ドル安によってアメリカの製品は安くなり、逆に日本の製品は高くなるので、国際市場ではバランスがとれるだろうという考えであった。これは三つの理由で失敗に終わった。
 

第一に、日本は外国からほとんどの原材料を輸入している。たとえば、鉄鋼や自動車のような製品の価格の四分の三は原材料費である。ドルが安くなれば、日本は原材料を安く買うことができるので、輸出価格をそれほど引き上げないですむ。
 

第二に、アメリカの企業はドル安のため輸入商品の値段が上がったことによって、自分たちの製品の価格を引き下げる必要性を感じなくなった。一方、日本人は円高の問題を契機として、コストを引き下げることを真剣に考えようとした。
 

第三に、品質の良さで定評のある日本製品は、値段が高くなっても依然としてアメリカではよく売れている。
 
 
 
 

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過去20年間有効であった日本のモデルは今後も有効かどうか。悲観論者たちは、高度成長の時代はもはや終わったという。
 

豊富な低賃金労働力を抱えた韓国や台湾などが、次第に近代設備を備えてくるようになると、世界市場で日本より安い製品を売るようになり、かつての日本と同じような有利な立場に立つだろう。
 

若年労働者、中小企業の労働者、大企業の臨時労働者、女性労働者など、これまで低賃金に甘んじていた人々の待遇も高度成長で次第に改善されてきた。しかし、不況になるとそのような立場の人々が真っ先に犠牲にされるであろう。
 

悲観論者たちによれば、ビジョンを達成する過程では、人々には楽観的な態度や秩序や勤勉さがあったが。これからは、ゆたかな欧米社会がたどったのと同じ道を歩むことになるだろうという。