バードとかれの仲間たち(植草甚一)

『バードとかれの仲間たち』 植草甚一 1976年初版 晶文社
 


 
 
 
 
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連載形式にしてロス・ラッセルの「ロータスランドのヤードバード」というチャリー・パーカーの思い出を紹介しませんか、と児玉編集長(スイング・ジャーナル)が「ジャズ・オット」誌を七冊揃えて持ってきて、僕にすすめた。いい勉強になるから、一生懸命やってみよう。
 

ロス・ラッセルというのは、有名な「ダイアル」レコードのプロデューサーで、十年以上前になるが「サウンズ Sounds」というジャズ小説を書いている。
 

ぼく(ラッセル)が「テンポ・ミュージック・ショップ」をやりたくなったのは、西海岸にジャズ・ファン向けのレコード店がなかったからで、西海岸で、ニューヨークで有名だったコモドーア・ミュージック・ショップの向こうを張ろうと野心をいだいたわけだ。
 
 
 
 

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復員したときビックリしたのはヒプスターが西海岸の都会にウロチョロしていることで、みんなジャズに夢中になっている。こいつはいけないと思ったことは、彼らがほめているミュージシャンの名前が初耳だったことだ。とりわけバードって誰のことなんだろう。
 

ショップを始めて、転換期にさしかかっていたジャズがどんな点で議論の的になっているかわかってきた。それでヒプスターたちが惚れ込んでいるミュージシャンたちが吹込んだレコードを取り寄せた。これは西海岸のファンがお目にかかったことがないレコード、つまりバップのレコードだった。
 

店を始めたのは1945年の夏だったが、12月にはじめてガレスピーとパーカーの七重奏団がクラブ「ビリー・バークス」でナマ演奏を聴かしたのである。このときのショックはたいへんなもので、このため西海岸のジャズは変わってしまったといっていい。
 

ぼく自身といえば、そのころ「ダイアル」レコードを出そうと考えていたが、このときのナマ演奏を聴いたおかげで、その方向がきまった。なんというすばらしい演奏だろう。レコードで聴いたのとはまるで次元が違っているではないか。そんな驚きもレコードを出したい気持ちに拍車をかけた。
 
 
 
 

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「ビリー・バーグ」でのステージ。スタン・レヴィがスティックを置いてワイア・ブラッシュを手にすると、激しいテンポでシャッフルしはじめた。そうしてリズムセクションが、すごく燃焼しはじめたとき、ディジーとトンプソンが26小節のリフ曲「ココ」を始めた。その音が場内をつんざく。
 

そのときだった。テーブルの間をぬけながらステージのほうへチャーリー・パーカーがやってきた。着古した上衣、ダブついてクシャクシャになったズボン、上衣の下に赤いズボン吊りが見え、白いシャツを着ている。チョッキだけ山羊皮のやつで新しい。25歳だがもう少し若く見えた。
 

彼は子供っぽい微笑みを浮かべながらステージに上がると、ちょっとのあいだサックスのパッドを指先でパタパタやっていたが、ついでアンサンブルに加わって一緒にやりだすと、その瞬間から演奏が変化してしまった。全体のヴォリュームがまし、より透明なサウンドとなり、ある権威といったものが生まれだした。
 
 
 
 

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スイング性も加わりはじめている。さっきまでバードがいなくても素晴らしい演奏だと思っていたのだが、やっぱりちがうのだ。バードが加わるまでは序曲的だった。そのときなかったものが新たに加わったという印象。つまり演奏は全体的なもの、不可避的なもの、そして完全なものになったのである。
 

バードが出す音色は、二種類の強烈なコントラストを持っていた。二人のサックス奏者がいて、一人は高音の澄みきってピュアな音を出し、もう一人は厳粛で深い意味を持ち、それが広がっていくような音を出す。そういった二人を、バードは一人でやっているという印象を与えた。
 
 
 
 

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バードはラッセルに抱負を語った。「いままでやったことはすべてご破算にしたい。ほんとうに新しいことがやりたいんだ。それがどんなことかというとアンサンブルに対する新しいコンセプションのあり方になってくるんだ。楽器の役割とかリズムに対する概念が変わってくることになるわけだ」。
 

ラッセルは資金のメドがつくかどうか心配になったが、このチャンスを逃すわけにはいかない。こっちの条件は一年契約で六枚のレコードをつくりたい。どんな曲を選ぶか、サイドメンのことなど、すべてバードにまかせ、口だしをしない。できたら「ダイアル」の専属になってもらうことだった。
 

そうしたらバードは文句なしにOKし仮契約書をつくったのである。これはバードにとって最初の専属契約だが、無名のレコード会社にこんな思い切った真似をするとは、よほどロス・ラッセルを見込んだにちがいない。
 

そうして一年契約は二年にのび、その間にハリウッドとニューヨークで七回にわたるレコーデイング・セッションがあった。これらの録音からは何枚かの歴史的名盤が生まれた。
 
 
 
 

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「ダイアル」レコードとバードが専属契約をしたあとでの第一回録音は1946年3月28日に行われた。スタジオはサンタ・モニカにある「ラジオ・レコーダーズ」。ここでマイナー・レーベルのレコード会社が第二次大戦の終わりごろレコーディングをやっていたが、設備の点で、とても評判のいいところだった。
 

つぎのようなメンバーだった。チャーリー・パーカー(as)、マイルス・デイヴィス(tp)、ラッキー・トンプソン(ts)、ドド・ママローサ(p)、アーヴ・ギャリソン(g)、ヴィクター・マクラミン(b)、ロイ・ポーター(ds)。問題はマイルス・デイヴィスということになる。
 

バードはマイルスが中間音を好んでだすこと、音の起伏に注意を向け、そこからメロディが生まれてくるときなど、熱がこもった音を出し幅もある、そんなところに感心して、ベニー・カーターのところなんかやめて、おれのところに来いとくどいたのだ。
 
 
 
 

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そのときマイルスは19歳で、まだ誰にも認められていなかったわけだし、そんな彼の中にあるポテンシャリティを見抜いたバードは偉いと言わなければならない。マイルスの力量は1950年に入ってその個性的魅力を発揮するが、そうなることをバードは1946年に予想したのであった。
 

バードが時間どおりに姿をあらわしたのはこのとき一回だけだった。時間どおりといったが、じつは早くからやってきていて、ミュージカル・ディレクターとしてリーダーになったのがよほど嬉しかったらしく、とても機嫌がよかったし、演奏上のディテイルを前もって考えていたのだった。
 

曲目は<ムース・ザ・ムーチ>、<ヤード・バード・スート>、<オーニソロジー>、<チェニジアの夜>。第一回の録音からは<オーニソロジー>の四回目のテイク、<チェニジアの夜>の五回目のテイクをバードの意見でカッティングすることにし、これを「ダイアル1002」として発売した。
 
 
 
 

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ハンプトン・ホースがバードの思い出を語っている。「バード・イン・ザ・バスケット」でジャムっているとバードが姿をあらわしたんだよ。誰かが「ビバップをやってみよう」といったので、ガレスピーの「ビ・バップ」のリフとコード進行を覚えていたのでそいつをやった。
 

そうしたらバードがニッコリして外へ出ていったと思ったら、アルト・サックスを抱えて戻ってきたんだ。そうしてステージに上がって「おどろいたなあ、若いくせしてよくこの曲がこなせるねえ」といって、いっしょに吹きはじめたんだよ。
 

このあとでバードとなんども会った。彼は兄貴のような気持ちになってとても親切にしてくれた。「フィナーレ・クラブ」で彼の伴奏をやらせてくれたし、このクラブが閉店すると「ハイ・デ・ホー」へ二人でよく行ったもんだ。
 

忘れられないバードの言葉があるなあ。「ぼくの音楽がわかってくれるだろうな。理解できないやつはどうしようもないな。ばかやろう。そんなやつは大西洋へ、いちばん新しい服を着て飛び込んでしまえ。そんなサックス奏者は、窓から楽器を投げ棄ててしまえばいい」とね。