『ボブ・ディラン自伝』(四章~五章)
【第4章 オー・マーシー】
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トム・ペティ・アンド・ザ・ハートブレイカーズとの十八カ月に及ぶツアーのを残りをやって、まとまった金を手にいれ、それで終わりだ。わたしは盛りを過ぎた人間だ。気を付けていないと、壁に向かって叫んだりわめいたりすることになる。
わたしは曲づくりをやめていた。つくりたいという気持ちがなくなっていた。最近の何枚かのアルバムには自作曲がさほど入ってない。ソングライターでいるということについて、わたしはこれ以上にないくらい無頓着でいた。
ある夜、みんなが眠ったあと、わたしはひとりキッチンのテーブルに向かっていた。何もない丘の斜面を月の光がおおっていた。そのとき、すべてが変わった。わたしは「ポリィティカル・ワールド」という曲のために、二十番分の詩を書き、二十の曲を書きあげた。
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ダニエル・ラノワは「本当につくりたいと思っているなら、かならずいいレコードになります」と言った。わたしはラノワが気に入った。彼は、自分の仕事の結果に世界の行く末がかかっているかのように仕事をするタイプの男だ。
ラノワはブライアン・イーノとともに会得した独特の考えを持ち、それに絶大の自信を持っている。しかし、わたしも人の助けを必要としないタイプの人間で、理解していないことをやれと指図されるのは大嫌いだ。これは、わたしたちの問題だった。
わたしはラノワが望んでいるような歌、「戦争の親玉」「はげしい雨が降る」「エデンの門」のような歌をわたしてやりたかった。わたしは彼のためでも、ほかのだれのためであっても、あのような歌をつくることができなかった。
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そのためには、強い力を持って自分の魂に言うことを聞かせなくてはならない。わたしはすでにそうした経験があり、一度で充分だった。いつかはふたたび、そうした人が、ものごとの中身を、ものごとの真実を検分できる人が、現れる。
人間は、人生が配ってくれたカードとともに生きる。わたしたちはみんな、それに合わせてものごとを調整しなくてはならない。あきらめて受け入れたとき、すべてが機能しはじめる。
「オー・マーシー」。初めて聞いたり見たりしたときには、まったく意味をもたなかったものが、最高のお気に入りとなって大きな意味を持つようになることがある。このレコードにはいくつかそういう歌がある。このレコードのすべてがとても単純で、そして歴然とした事実であると思っている。
【第5章 氷の川】
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1959年ミネアポリスにいるころウディのレコードを聞き、わたしの人生は一変した。78回転盤のウディ・ガスリーのレコード集の一枚に針を落としたとき、わたしはことばを失った。聞こえてきたのは、ひとりで膨大な量の自作曲を歌うウディだった。
その後の数週間、ウディのレコードを聞きつづけた。わたしは彼が「おれはじきにいなくなるけど、この仕事をお前に託そう。おまえならやれるとわかっているよ」と言っているのをたしかに感じていた。
ウディの歌はわたしに大きな衝撃を与え、することなすことに、食事のしかたや服装や、だれと知り合いになりたくて、だれと知りあいになりたくないかにまで影響を与えた。
※物語は一周して第一章に繋がる
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1961年、真冬のニューヨークシティ。わたしは祭りのようににぎやかなマクドゥーガルストリートの最高クラブ、ギャスライト定期的に出演していた。ギャスライトの出演者にの仲間入りができたのはディブ・ヴァン・ロンクのおかげだった。
コロンビア・レコードのジョン・ハモンドが始めてわたしに会って演奏を聞いたのは、キャロリン・ヘスターのアパートだった。わたしはキャロリンに、コロンビアから発売するデビューレコードでハーモニカを吹いて欲しいと頼まれていた。
キャロリンのアパートにはギター奏者のブルース・ラングホーンとベース・プレイヤーのビル・リーも来ていた。当時四歳だったビルの息子は成長したのち、映画監督のスパイク・リーとなる。ブルースとビルは、このあとわたしのレコードにも参加する。
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わたしはアメリカ一のフォーククラブ、ガーディス・フォーク・シティに前座で出演していた。そして『ニューヨーク・タイムズ』のフォーク&ジャズコーナーにわたしを絶賛するコンサート評が載った。次の日の朝ハモンドは新聞を読んだ。
レコーディングは順調に運び、荷物をまとめて帰ろうとしたとき、ハモンドがわたしをコントロールブースに呼び、コロンビアからわたしのレコードを出そうと言ってきた。わたしは「はい、そうしたいです」と答えた。全人生がひっくり返ろうとしていた。
フォークミュージックとは、よりすばらしい光を放つ、もうひとつの次元の現実だった。それは全人類の叡智を合わせたものにもまさり、呼びかけに応える者は姿を消してそのなかに入っていける。それは、個人というより心の原形が集合してできあがった神話の世界である。