マイルスとコルトレーンの日々(植草甚一)

『マイルスとコルトレーンの日々』 植草甚一 1977年 晶文社
 
 
 

<マイルス・デイビス>
 
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1947年、サルトルがはじめてのニューヨークで、はじめてジャズらしい演奏を聴いたときの印象を次のように書いた。「ジャズってバナナとおんなじだ。皮をむいたバナナのように、そのときすぐ食べてしまわなければならない」。
 

ごらん、トランペットを吹いている太った男が、ありったけの息をしぼりだしているだろう。ピアニストは情け容赦もなく叩きまくっているではないか。ベーシストの弦のはじきかたを見ていても、まるでそれに苦痛をあたえているような気持ちになる。
 

そうだ、彼らはこうして君たちの最良の箇所めがけて話しかけようとし、そのため一所懸命になっているのだ。その最良の箇所というのは、君たちのいちばんタフなところ、いちばん自由なところである。
 
 
 

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ところでマイルスのスタイルは、いつもソフィスティケートされている。それなのに彼は子どもたちにも訴えかける音楽的な言葉で話しかけてくるのだった。
 

マイルスのレコードの中でも、とくに心をかきみだし、そのモード進行が忘れられなくなる「カインド・オブ・ブルー」をだして、また聴いていると、九歳になるこどもが耳を澄まして聴いていたがすぐ「マイルス・デイビスじゃないの」と言ったものだ。
 

それで「偉いねえ、どうしてわかったんだい」ときいてみると、元気のいい声ではっきりと「ちいさな男の子が、おうちから締め出されて、いれてちょうだいといってるようじゃない」と答えたのである。
 
 
 

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マイルスは弱点をカバーしようと考え、長いあいだかかって、新しいスタイルを生み出した。それは自分が出せるいい音を、自分で編集することで、それには省略法が加わる。つまり音を少なくしながら、表現力の方は、もっとずっと出るようにしたのだった。
 

最近のジャズファンはマイルスの古いレコードをそんなに聴いてはいないと思うけれど、ギル・エバンスのオーケストラのなかで、どんなにマイルスの音の出し方が少ないかということ、
 

そこから生まれてくる心のなかを丸出しにしたような悲しい感情、それはなんとなく人の死を知ったときのような悲しみみたいだが、それを「マイルス・アヘッド」や「ボギーとべス」「スケッチ・オブ・スペイン」で知ったら、きっと驚くにちがいない。
 


 
 
 

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マイルスは、いろんな影響をメインストリーム・ジャズにあたえながら、25年間に3回も4回も自分の演奏スタイルを変化させたのだった。こんなことは、ほかのジャズ・ミュージシャンには一人として見いだせない。
 

サッチモをはじめ、ホーキンス、ホッジス、ガレスビーなど一流どころは、みんな烙印を押された。つまりスタイルを変えることができなくなった。ところがマイルスは、まったく変化してしまうのだ。
 

あの頃のマイルスが一番すきという人や、そういうことが頭にあってマイルスのレコードを聴いてみるとガッカリするかもしれない。それよりもいいことは先入観なしに「マイルスは最近どうなっているんだろう」という気持ちで彼に近づいてみることです(ハービー・ハンコック)。
 
 
 

<ジョン・コルトレーン>
 
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コルトレーンが与える影響は単なる模倣にはならない。彼ら自身の才能に応じて新しいフレージングを考えたりしていくようになる。そのような刺激をコルトレーンは与えるのである。ウェイン・ショーターのスタイルはだれよりもコルトレーンに近いがその音色は彼とはまったく異なっている。
 

「サムシング・エルス」や「トランペット・ブルー」がいい例だが、キャノンボール・アダレーにしても、コルトレーンといっしょに演奏していると影響されてしまうし、マイルス、ホレス・シルヴァーでもコルトレーンのフレージングを使っているのが見受けられる。
 

コルトレーンのドライブのしかたはスイングするというよりも”ファンク”ドライブ” “Funk”drive であるが、これは表面に、そういちじるしくは現れないから注意を要する。「ブルー・トレイン」と「ベース・ブルース」を良く聴いてみるとわかる。
 
 
 

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「マイルスという人間は本当に人並みはずれているねえ。ほとんど仲間とも口をきかないし、音楽について論じることも滅多にない。他人がやってることに興味がなさそうだし、感心したような顔をすることもない。仕方ないから、ぼくは自分で勝手なことをするようになったんだ」
 

「ところが、セロニアス・モンクとくると、まさにデイビスといい対照で、いつも自分の音楽のことばかり話しているんだよ。判ってもらえるまで話をやめない。途中で訊きかえすと、こんどはその点をとことん説明したあげく、判ったかい、と念をおしてくれる」
 

「マッコイ・タイナーはハーモニーをはっきり叩きだしてくれるから、意識的にハーモニーを追わなくてもよく、なかばそれを忘れたような気持ちになり、ときどき両足が地面から離れて空間に舞い上がりながら、新しい次元で演奏できるように仕向けてくれるんだ。こんなときが自分としては一番いいと思っている」
 
 
 

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1966年に来演したコルトレーン五重奏団を東京で四日間聴いた。初日に行って感心したら二日目も聴きに行こう、それでコルトレーンの音楽はわかるようになるだろうと思っていたが、とうとう四日間かよった。仕事をほうりだしてでも聴かないではいられなくなった。
 

ファンの一人が、全公演を通して聴かなければすまなくなり、学校が休暇中を幸いにバンドボーイを志願して地方公演について廻ったが途中で文なしになった。するとコルトレーンが、心配するな、おれがだしてやるといった、とても親切な人です、と話してくれた。
 

「ジャパン・タイムズ」の記者は『正直に告白すると、少しもコルトレーンが理解できなかった。となりにジョージ川口とスリーピー松本がいた。スリーピーは演奏が終わったとき肩をすくめ首をふりながら「ワカラナイ!」といって驚いたような顔をした。彼以上にわからなかったのが私である』と書いていた。
 
 
 

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「オーネット・コールマンが『ファイヴ・スポット』で演奏したとき、ぼくも聴きに行った。そのとき一緒にやってみないかといわれ、二曲つきあったけど、彼はおそろしく刺激をあたえ緊張させてしまうんだ。12分間だったけど、忘れられない思い出として残っている」
 

1960年コルトレーンは、自分のグループを編成し「マイ・フェイバリット・シングス」で人気を確立した。そのころ”怒れる若者たち”という言葉が流行し、彼は”怒れるテナーマン”と呼ばれたが、彼自身は否定し「ぼくは自分にだけ怒っているんだ」といったものだ。
 

すくなくともジョン・コルトレーンが創造した音楽にたいしてはジャズという名称は不適当です。そう言っていいと思うのは、ジャズの概念になかった高度なものが彼の音楽のなかに入りこんでいるからです(アリス・コルトレーン)。