『人生で大事なことはビートルズからすべて教わった』 ラリー・ラング 訳:飛田妙子/萩岡史子 2002年3月 株式会社青春出版社
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ビートルズは世界中で『ファブ・フォー(すてきな四人組)』として知られている。彼らは音楽や映像という貴重な芸術作品を残してくれたが、それよりもっと大切なものも創ってくれた。リヴァプール市民が「ファブ(すばらしいもの)」という一語で定義する自由を生み出したことだ。
ビートルズ流の生き方は、創造的で独創的、優雅でありながら知的でユーモアがあり、何ものも恐れず、大胆で、社会性に富み、新しくて幅広く便利、しかも誠実で、それぞれ価値のある各人独自の夢にいつも焦点を置いている。
ジョンとぼくはいつも学校のノートに、思いついたことは何でも書きとめておいた。1ページ目のトップにはいつも『レノン=マッカートニー・オリジナル』と書いた。どのページもそうだ。ぼくたちはやがて歌を書く立派なチームになると思っていた。おもしろいことに、そうなった。
ポールは、「夢をきちんと形にしたことは、ビートルズの夢を実現させる決定的な要素だった」という。大事なのは、創りだす芸術の質ではなく、いま創作しているという事実である。最初は頭の中にあったものが紙の上に現われ、その次には、日常生活の一部となるのだ。
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ジョンには尊大なところがあったが、他人の才能は素直に認めた。早熟なジョンは16歳のとき、自分より若いポールが才能やルックスやショーマンとしての素質など多くの面で脅威になるのを感じたが、ジョンには偉大なリーダーとしての本能が備わっていた。
「友人がクォリーメンという僕のバンドにポールを連れてきた。彼には才能があることがすぐわかった。ぼくはリーダーだから決めなければならなかった。いまのメンバーより優れた人間を入れるかどうかだ。答えはポールを入れることだった。グループの力をもっと強くするためにね」。
この決断を下した直後から運命が変わったとジョンは言う。
「ポールはそれからぼくにジョージを紹介した。ぼくはまたジョージを入れるかどうか決めなければならなかった。ジョージの演奏を聞いて、入れることにした。そのあとクォリーメンのメンバーはだんだん抜けていった。みんなが対等にやっていくことで、強力な体制ができたんだ」。
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ビートルズは1960年から61年にかけて5回ドイツへ旅をし、800時間をハンブルグのステージで過ごした。ポールは語る。「リヴァプールではだいたい1時間のショーだった。ところがハンブルグでは、ひと晩に8時間演奏しなければならない。自然に新しい演奏の方法を考えるようになった」。
この新しい演奏方法の中には、単純なロックンロールの出し物を、群衆を熱狂させるイベントにするようなものもあった。港町の酔っ払った客の「マッハ・ショウ! マッハ・ショウ!」の叫びに応えて、彼らはビールやドラッグの力を借りて熱狂し、ステージ上で足を踏み鳴らし、転げ回って叫んだ。
しかしながら、1962年にビートルズが故郷にもどって聴衆の前に姿を現したとき、誰もがバンドの変わり方に目を見張った。ファンは金切り声をあげるようになり、ショーが始まる前にはクラブの周囲に長い人の列ができた。
「ハンブルグでの経験によって、何を投げられても受け止められる粘り強さと、力が与えられた」と彼らは口を揃えて強調する。
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無意識の夢、すなわち眠っているときや、なかば目覚めているときの夢、あるいは白昼夢などを決して排除してはいけない。そういうときは、否定的な心が休んでいるので、夢がいちばん創造力を発揮するのだ。
ジョンもそれに同意する。創造力が効果的に働くのはそのようなときであることを知っているからだ。「それが現れるのはいつも、なかば目ざめている真夜中や疲れているときで、批判する能力のスイッチが切れているからなのだ」。
『イエスタディ』を書いたときのポールの説明だ。「すてきな調べが頭の中に響いて目が覚めたんだ。『すばらしいな、あれは何だろう』」。ポールはベットから飛び降り、隣のアップライト・ピアノに向かい、その調べに合わせるコードを見つけた。「あのメロディーがとても気に入った、自分で書いたなんて信じられないほどだ」。
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ビートルズはあるがままの周囲の世界から、毎日の生活の中からインスピレーションを引き出してきた。自分たちの子ども時代、友だち、恋人、親戚、ひと言で言えば「ぼくたちの耳に、目に残る」ペニー・レインの懐かしいあの風景なのだ。歌の中に出てくる床屋は、思春期前のジョンやジョージやポールが髪を切ってもらった店である。
夢を達成するためには、どんなことでも喜んでやるという姿勢が、ビートルズの残した教訓の中心をなしている。それは彼らが活動中に成し遂げた膨大な仕事の量を見ればよくわかる。これには単純な公式があてはまる。夢は大きければ大きいほど、なすべき仕事の量は多くなるというものだ。
ジョンは、こうなりたいと願うものになるために必要なハードな仕事についてこう語っている。「ビートルズがビートルズであるために、何もかも捧げたんだよ。青春の全てが必要だった。誰もがのんびり休んでいるときも、ぼくらは1日24時間働いていた」。
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『サージェント・ペパー』のジャケットには、ビートルス自身が選んだ有名人やヒーローが何十人も描かれているが、これにはブライアン・エプスタインもEMIの上層部も大いに困惑した。ブライアンは、件のアルバムは「茶色の無地の包装紙」に入れて流通させるようにというメモを送った。
EMIの会長ジョセフ・ロックウッドがポールの家に来てこうわめいた。「ここに顔が載っている人たちとは、みんなもめ事が起こるぞ。誰にでも肖像権があるんだからジャケットに載せたりしてはならんのだ。訴訟でにっちもさっちもいかなくなる!」。
ポールはEMIの取るべき手順を直々に説明した。「それじゃ、マーロン・ブランドか彼の代理人に電話してこう言うんです。『ビートルズはブランド氏の似顔絵を表紙に飾りたいと言っています。敬意を表わしたいのです』と。そう説明してくださいよ」。
しばらく小競り合いがあったが、またまたビートルズに軍配が上がった。『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のジャケットは、おそらくいまだかつてないほど幻想的で影響力の強いものになった。
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ジョンにはめったにほめてもらえなかったとポールは言う。たしかにリヴァプールの厳しいしつけでは、励ましの言葉はかけずにおくのがよいとされていた。それだけに、いざジョンにほめてもらうと(いつも一対一のときだ)その効果は抜群だった。
ポールは言う。
「ジョンにはほんのちょっとでも、ひと言でもほめてもらえば、すごく嬉しかった。映画の『ヘルプ!』をつくっているときだった。ジョンはふと、初めてこんなことを言ってくれた。『ねえ、ぼくは自分の曲よりも、君の曲のほうが好きみたいだよ』。ジョンの最高のほめ言葉だった。万歳!誰も見ていなかったからジョンが言ってくれたんだ」。
グループの結束について、ジョージは言う。「ジョンとポールとは6年以上も一緒にやってきたから、お互いの腹のうちまでわかってる。それぞれの性格が、リンゴも含めてとてもバランスがいいんだ」。
ポールは言う。「どの曲もビートルズのテストを通らなければならなかった。みんなが好きであることが必要だった。誰かが気に入らなければ退けられた。もしリンゴが『その曲は嫌いだな』と言えば、選ばないか、リンゴがいいと言うまで説得しなければならなかった」。
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ポールは後の『ペーパーバック・ライター』のベースの弾き方やハーモニーのつけ方は、ビーチ・ボーイズのリーダー、ブライアン・ウィルソンから大きな影響を受けたとしばしば語っている。また『サージェント・ペパー』のインスピレーションの元になったのはブライアンの傑作『ペット・サウンズ』だったとしている。
ポールは言う。「ペット・サウンズを聞いたとき、『すごい! おれたちはどうすればいいんだ』と思った。バンドの中にディレクターがいるとすれば、『ペパー』はぼくがディレクターのようなものだった。
ぼくは『ペット・サウンズ』から主に影響を受けた。ジョンも影響されたけど、ぼくほどではない。『ペット・サウンズ』はだれもがみんな演奏したし、あの時代のレコードだった」。
敬意のこもったライバル意識はお互いのものだった。1995年のドキュメンタリーでブライアンはこうコメントした。「ぼくたちは1965年にリリースされた『ラバー・ソウル』に負けないようなアルバムにしたいと願っていた。祈りのような気持ちだったが、エゴもあったろう、でもうまくいった。『ペット・サウンズ』はそれからすぐできた」。
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ビートルズはファンを大切にした。ジョージは60年代前半をこう語る。「ぼくたちはたぶん、キャヴァン(クラブ)の聴衆をなによりも大切にしていたんだと思う。そりや、すばらしかった。ぼくたちは自分たちのファンのために演奏していたし、ファンもぼくたちに似たところがあった」。
ファンに対する心遣いを表すジョンのこんなエピソードもある。あるときファンがロールス・ロイスに群がってくるのを運転手が止めようとしたので、ジョンはたしなめた。「やらせておけよ。ファンのおかげで買えたんだから、車を壊されても文句は言えない」。
ポールはビートルズ流の成功への方策を簡潔に語る。「ぼくたちは常に前へ前へと進んでいた。もっと大きな声で、さらに遠くへ、より長く、もっとたくさん、もっと違う何かを、と」。
自分たちの音楽の中に常に新しさを求め、リスクを顧みないやり方は、いうまでもなくビートルズのトレードマークである。