『今日の芸術』 岡本太郎 (1999年3月) 光文社
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常識・固定観念・処世術などにしばられている人間は、多かれ少なかれ、みな無意識のうちに表面をつくろい自分自身をおさえています。芸術の対象は、その不自由な偽りの衣を脱ぎすててしまったところにあるはずです。
われわれの精神は、つねに理屈ではわりきれない、神秘的なイメージや物語で豊かにうるおされ、つちかわれています。幼いころ、濃い夢をむすばせてくれたアラビアンナイトやシンデレラ、竹取物語、桃太郎など、それらは大人になった今日のわれわれを支えているのです。
新しい世代が牙をとぐことを忘れて小利口になり、いっぽう、古色を帯びた権威側も、奇妙に安心して、いちおうものわかりよさそうに、ニコニコ顔でアグラをかいている。どうもやりきれない気分です。
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モダニストが時代にあわせて、その時の感覚(センス)になぞらえていくのにたいして、ほんとうの芸術家はつねに批判的です。
正しい時代精神が、現存する惰性的なありかたに反抗し、それをのり越えていくという、反時代的な形で、自分の仕事を押し出していくのです。だれもがそうしなかった時期に、新しいものを創造していくからこそ、アヴァンギャルドなのです。
アヴァンギャルド(前衛)と、モダニズム(近代主義)。どんな人間の精神のなかにも、やはりこの二つのものが、あるのです。つまり、生活の安易なたのしい愉悦を求めて、これはそうでなければ生きていかれないから求めるという面と、やはりそれでは満足しないという気持ちが、どんな安逸な考えを持っている人にも、心の奥底にはあるのです。
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作品が傑作だとか、駄作だとかいっても、そのようにするのは作家自身ではなく、味わうほうの側だということが言えるのではありませんか。
そうすると鑑賞、味わうということは、じつは価値を創造することそのものだとも考えるべきです。もとになるのはだれかが創ったとしても、味わうことによって創造に参加するのです。
創られた作品にふれて、自分自身の精神に無限のひろがりと豊かないろどりをもたらせることは、りっぱな創造です。
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自由に描いてごらん、勝手に描いてみろ、と言われて、しかもそのほうがはるかにむずかしくて、描けなくなる。これは、いかに「自由」にたいして自信がないかを示すものです。
ほんとうの自分の力だけで創造する、つまり、できあいのものにたよるのではなく、引き出してこなければならないものは、じつは、自分自身の精神そのものなのです。
自分が自分自身で思いこんでいる自分の価値というものを捨てさって、自分の真の姿をはっきりさせ、ますます自分自身になりきるということ、それがまた、じつは、おのれの限界をのり越えて、より高く、より大きく自分を生かし、前進させてゆくことなのです。
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要するに、芸術の問題は、うまい絵をでなく、きれいな絵をでもなく、自分の自由に対して徹底的な自信を持って、表現すること、せんじつめれば、ただこの “描くか、描かないか” だけです。
ちょっと見ると、まずいような絵でも、はるかに純粋で強いものを表現する子どもがおります。こういう絵を描く子どものほうが、たんに器用な子どもよりはるかに、芸術的にも、精神的なあらゆる意味からいっても、すぐれているばあいが多いのです。
だから、一目見て、下手のように思える子どもにたいして、「おまえは下手くそだ」などと言って、誤った劣等感をあたえたりすることは危険きわまりありません。
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さて「日本文化」は一般に考えられているよりも、はるかに特殊です。これは日本が大陸のかなり高い文化に接しており、つねに、それを受け入れてきたという歴史的な事情に、その一つの原因があります。
ほんとうに自分自身の生活から生まれた、素朴で健康なものではない、すでにできあがった、爛熟した外来文化をそのまま、拝借してばかりきたのです。文化というものは、オマンジュウのアンだけなめて、皮はいらないというような、そんな仕掛けのものではないのです。
外から見て、いいと思えるようなものは、実にならない上っ皮であって、悪いと考えられるもののほうに本質的なものがある場合が多い。危険をおかし、身を張ってそれと対決し、消化して、それ以上のものをつくりあげるという、たくましい精神でなければ、文化の交流はできません。
すべてがここに定着し、あとからあとから積みかさなって、ひどく不統一のまま固まり、形式化されているのです。他から受け入れてばかりで、それを他に与えるという立場にならなかった文化の特殊性です。
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芸術には邪道とか正道などということは絶対になりたたないのです。というのは、古い型を否定して、新しい、だれもが想像できなかったようなものを創りだしてゆくのが芸術の本質だからです。
その意味で邪道とののしられた方がかえって正道のわけですが、日本人はとにかく「邪道」といえば悪い、ダメなものと信じてしまう。芸道の形式主義からきた考え方が、しみこんでいるからです。芸術にとって、それはまことに不孝な精神と言わねばなりません。
芸術の本質は技術であって、芸の本質は技能です。技術は、つねに古いものを否定して、新しく創造し、発見していくものです。つまり、芸術について説明したのと同じに、革命的ということがその本質なのです。
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「新しい絵などどというものはインチキだ」と言っていた人たちが、ピカソ、ブラックなど、外国から、時のモダンアートの権威が来るとそのたびにがらりと打って変わってたいへんすなおに、謙虚にほめたたえる。
この国の文化には責任の所在がどこにもない。戦争中、悲壮なおももちで、聖戦を一手にひきうけたような文化人が、終戦、とたんに、まるではじめから戦争反対者だったようなことを言う。しかも引きつづいて権威の座に謙虚におさまっている。
この瞬間に徹底する。「自分が、現在、すでにそうである」と言わなければならないのです。現在にないものは永久にない、というのが私の哲学です。逆にいえば、将来あるものはかならず現在ある。だからこそ私は将来のことでも、現在責任をもつのです。
1953年パリとニューヨークで個展をひらきました。出発する前、私は講演をしたのですが、聴衆の一人から「こんどあちらへ行かれて、何を得てこられるでしょうか?」という質問がでました。「いや、こちらが与えにいくんです」と私が返事をしたら、満場がドッと笑いました。