『失敗の本質』 戸部良一 寺本義也 鎌田伸一 杉之尾孝生 村井友秀 野中郁次郎 1991年08月 中央公論新社
戦争を始めることを阻止できなかったこと、さらには戦争を途中で止めることができなかったことについて、どう考えればいいのか。本来なら各作戦の『失敗の本質』を考える前に、負けると分かっていたといわれる戦争に突き進んでいったこと、なぜ誰も止めることができなかったのかということ、その「本質的な大失敗」についてもっと考える必要がある。同じ日本人として、武器の購入や改憲について、もっと慎重になる必要がある。「いまの日本が戦争などするはずがない」とは誰も言えない。2018/08
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より明確にいえば、大東亜戦争における諸作戦の失敗を、組織としての日本軍の失敗ととらえ直し、これを現代の組織にとっての教訓、あるいは反面教師として活用することが、本書の最も大きなねらいである。
日本軍の組織原理を無批判に導入した現代日本の組織一般が、平時的状況のもとでは有効かつ順調に機能しえたとしても、危機が生じたときは、大東亜戦争で日本が露呈した組織的欠陥を再び表面化させないという保証はない。
本書は大東亜戦史上の失敗例として六つのケースを取り上げ、個々のケースにおける失敗の内容を分析した。六つのケースとは、ノモンハン、ミッドウェー、ガダルカナル、インパール、レイテ、沖縄である。
2 【ノモンハン事件】
ノモンハン事件は本来荒涼たる砂漠地帯における国境線をめぐる争いにすぎなかったが、第一次世界大戦を経験せず、清、帝政ロシア、中国軍閥と戦ってきた日本陸軍にとっては初めての本格的な近代戦となり、かつまた日本軍にとって最大の敗北となった。
大陸命第320号(国境紛争の処理は局地に限定するように努める)の発令により、ハルハ河東岸のソ連・外モンゴル軍を攻撃しなくてもよいことになったが、関東軍としては越境したソ連・外モンゴル軍を撃破するとの従来の方針になんらの変更も加えなかった。
関東軍第二課高級参謀磯村武亨大佐は、ソ連軍の兵力は約二個師団であり、これに対抗するには日本軍も十分な兵力が必要である、さらに七月末以降日本軍陣地戦の左右両翼が解放されており危険である、と再三にわたり意見を述べた。
これに対して関東軍作戦課は、一挙にソ連、外モンゴル軍を撃滅するという意気に溢れているときに、そのような消極的意見は不適当である、また、ソ連・外モンゴルに対しては三分の一の兵力で十分であり、今回の日本軍の予定兵力はむしろ鶏に対する「牛刀」にあたる、さらに両翼が解放されているのは、ソ連軍を引き入れ殲滅するために空けてある、と反論した。
日本軍は、大兵力、大火力、大物量主義をとる敵(ソ連軍)に対して、敵情不明のまま、用兵規模の測定を誤り、いたずらに後手に回って兵力逐次使用の誤りを繰り返した。情報機関の欠陥と過度の精神主義により、敵を知らず、己を知らず、大敵を侮っていた。
また、統帥上も中央と現地の意思疎通が円滑を欠き、意見が対立すると、つねに積極策を主張する幕僚が向こう意気荒く慎重論を押し切り、上司もこれを許したことが失敗の大きな原因となった。
日本軍を圧倒したソ連軍第一集団指令官ジューコフはスターリンの問いに対して、日本軍の下士官兵は頑強で勇敢であり、青年将校は狂信的な頑強さで戦うが、高級将校は無能である、と評価していた。
3 【ミッドウェー海戦】
大本営発表によれば、ミッドウェー海戦での米軍の損害は、航空母艦二隻沈没、航空機約120機の損失、重要軍事施設の破壊であり、日本軍の損害としては航空母艦一隻の沈没と同一隻の大破、巡洋艦一隻の大破、ならびに未帰還航空機として35機の損失が報告された。
このような大本営発表に続いて「朝日新聞」は、「太平洋の戦局はこの一戦に決したというべく、その戦果は絶大なものがある」と述べ、さらに「読売新聞」は(略)「わが帝国防衛水域を米合衆国西岸にまで延長したことも意味」するととらえ「戦史上特筆大書きさるべきものである」とした。
しかしながら、ミッドウェー海戦が実際に日米両国にもたらした帰結は、日本海軍は、連合艦隊機動部隊において中心的な役割を果たしてきた大型空母四隻を失うという、大本営発表をはるかに上回る損害を受け、これに対して米国側の空母損失は一隻にすぎなかった。
まさにミッドウェー海戦は「太平洋の戦局はこの一戦に決した」というべき戦いであり「戦史上特筆大書きさるべき」海空戦であったが、それは日本側にとってではなく、戦果絶大なものがあったのは米軍側なのである。
ミッドウェー作戦の真のねらいは、ミッドウェーの占領ではなく、同島の攻略によって米空母を誘い出し、これに対し主動的に航空決戦を強要し一挙に捕獲撃滅することにあった。ところが、この目的を山本は第一機動部隊の南雲に十分に理解・認識に至らしめる努力をしなかった。
情報の軽視と奇襲対策の不十分さ。矛盾した艦隊編成。司令長官(自ら)の出撃。索敵の失敗。航空作戦指導の失敗。近代戦における情報の重要性を認識できなかった。攻撃力偏重の戦略・用兵思想。防御の重要性の認識の欠如。
ダメージコントロールの日米の差は、珊瑚海海戦で大破しながら三日間の修理で本海戦に出撃し、被弾後消化に成功したばかりか飛行甲板の修理まで行い、「飛竜」第二次攻撃隊に無傷の空母を攻撃したと思わせた「ヨークタウン」の例を見るとき、特に顕著であろう。
4 【ガダルカナル作戦】
ガダルカナル作戦は、大東亜戦争の陸戦のターニング・ポイントであった。海軍敗北の起点がミッドウェー海戦であったとすれば、陸軍が陸戦において初めて米国に負けたのがガダルカナルであった。
米国の対日戦略の基本は日本本土直撃による戦争終結にあった。ただし、中部太平洋諸島の制圧なくして米軍の対日進攻はありえないし、航空機の前進基地確保は困難であった。米軍はこのような長期戦略をもとに、大本営の反攻予測時期より早く、日本軍の補給線の伸びきった先端、ガダルカナル島を突いてきたのである。
1942年8月7日、米軍がガダルカナルとツラギ島へ上陸したという第一報が入ったとき、大本営陸軍部内にその名を知っていたものは一人もいなかった。そして、同島に海軍陸戦隊150人と人夫約2000人が飛行場を建設していたのを知ったのも、その時だった。
大本営はわずか2千人の一木支隊にガダルカナル奪回を命じた。一木大佐は帝国陸軍の伝統的戦法である白兵銃剣による夜襲をもってすれば、米軍の撃破は容易であると信じていた。その自信は出撃に際し「ツラギもうちの部隊で取ってよいか」と第十七軍参謀に尋ねたことにも表れている。
陸海軍の間では、「相互の中枢における長年の対立関係が根底にあって、おのおのの面子を重んじ、弱音を吐くことを抑制し、一方が撤退の意思表示をするまでは、他方は絶対にその態度を見せまいとする傾向が顕著であった」(『作戦日誌で綴る大東亜戦争』)。
海軍は、米艦隊主力をソロモン海付近に求め、その撃滅を図ったうえで戦争終結への方途を考えようとしていた。しかしながら、米軍が陸・海・空統合の水陸両用作戦を開発していたことはまったく予期しておらず、太平洋諸島の攻防についてもほとんど研究をしていなかった。
陸軍における兵站線への認識には、基本的に欠落するものがあった。すなわち補給は敵軍より奪取するか、または現地調達するというのが常識的ですらあった。海軍における主要目標は米国海軍機動部隊撃滅であり、本来的に補助物質輸送の護衛等に艦艇を供しようとするものではなかった。
作戦司令部には、兵站無視、情報力軽視、化学的思考方法軽視の風潮があった。それゆえ、日本軍の戦略策定過程は、独自の風土を持つ硬直的、官僚的な思考の体質のままに机上でのプランを練っていく過程で生まれる抽象的なものであった。
5 【インパール作戦】
インパール作戦は、甚大な犠牲(戦死者約3万、戦傷および戦病のために後送された者約2万、残存兵力約5万のうち半分以上も病人であった)を払って惨憺たる失敗に終わり、四か月後にようやく作戦が中止されたときには、ビルマの防衛自体も破綻していた、
当時南方軍は、ビルマ攻略の成果とその余勢を駆って、インド国内情勢の動揺に乗じる東部インドへの進撃を企図した。蒋介石政権の屈服と英国の脱落によって終戦の機をつかもうとしていた大本営は、この意見を容れて昭和17年、21号作戦(東部インド進攻)の準備を指示したのである。
21号作戦の実行には大きな困難が伴い、無謀な計画とすら考えられた。まず、5月末から9月末までの雨季には降水量が8000ないし9000ミリに達し、しかもジャングルが地域一体をおおい、当然交通網も貧弱で、人口も希薄なため食料などの徴発もむずかしく、さらにそのうえ、そこは悪疫瘴癘の地であった。
このような作戦地域の作戦困難を指摘し作戦困難を主張する現地軍(第一五軍)の声と、憂慮すべき事態に陥ったガダリカナルの戦局により、同年11月大本営は21号作戦の実施保留を南方軍に指示するに至った。ただし、これは作戦の取り消しを命じたものではなく、やがてこれがインパール作戦へとつながっていく。
第一五軍司令官牟田口は作戦期間を3週間と予定していたが、それは3週間で作戦が必ず終了するという「必勝の信念」に基づくものであった。つまり、彼は作戦の成功を楽観視していたのであり、彼にとってコンティンジェンシー・プランを検討する必要性は認めなかった。
第一五軍の鵯越(ヒヨドリ越え)戦法、急襲突進戦法の効果は、戦う以前にすで失なわれていた。というのは、スリム中将指揮下のイギリス第一四軍が斥候や空中偵察によって日本軍の作戦準備状況をキャッチし、インパール作戦の概要をほぼ正確につかんでいたからである。
南方諸地域を視察した秦彦三郎参謀次長の報告は「インパール作戦の前途はきわめて困難である」と作戦中止を示唆していた。しかし、戦争指導の継続と政権維持をインパール作戦の成功に賭けつつあった東条首相兼陸相にすれば秦の示唆する作戦中止は受け容れがたいものであった。
インパール作戦の失敗は、ビルマ防衛全体の破綻を招いた。フーコンでも雲南でも敵の反攻の前に、日本軍は敗走を重ねなければならなかった。そして日本は、インパール作戦の中止と相前後してサイパンを失い、やがてその責任をとって東条内閣も総辞職した。
※コンティンジェンシー・プラン 事件・事故・災害などの不測の事態が発生することを想定し、その被害や損失を最小限にとどめるために、あらかじめ定めた対応策や行動手順のこと
6 【レイテ海戦】
レイテ海戦は、敗色濃厚な日本軍が昭和19年10月にフィリピンのレイテ島に上陸しつつあった米軍を撃破するために行った捨身の作戦であった、この海戦は「捷一号作戦」と呼ばれる陸海空にわたる統合的な作戦の前半部分にあたる。
レイテ海戦は世界の海戦史上でも特筆すべき最大級のもので、戦闘は東西600カイリ(1カイリ≒1.85㎞)南北200カイリという日本全土の約1.4倍に相当する広大な海域において、10月22日から26日まで四昼夜にわたって繰り広げられた。
日本側では四つの艦隊が別々の海域で、時を同じくして戦闘に参加した。その艦隊総勢力は戦艦9、空母4、重巡洋艦13、軽巡洋艦6、駆逐艦31の総計63隻にのぼった。これは当時の連合艦隊艦艇の八割に相当するものであり、日本海軍が総力を結集して戦った事実上の最後の決戦となった。
これに対して米軍側の戦力は、軍艦だけで約170隻、上陸用艦船を含めると900隻に近く、まさに「史上最大の海戦、そしておそらくは世界最後の大艦隊決戦」であった」(『海戦』ハンソン・ボールドウィン)。
もし、フィリピンが米軍の手に落ちれば南方からの石油その他の戦略資源は輸送不可能になる。また台湾、沖縄への進攻も時間の問題となり、それに続いて本土上陸も現実のものとなる。したがって、米軍の企図を阻止するためには、連合艦隊をすり潰してもやむをえない、というのが大本営の決意であった。
連合艦隊司令部より10月21日に発令された「作戦命令」による、各部隊の役割を要約すると、
①第一遊撃部隊(栗田艦隊)は戦艦「大和」「武蔵」を主軸とした水上部隊によって北方(サンベルナルジノ海峡)からレイテ湾に突入する。
②第一遊撃部隊(西村艦隊)と第二遊撃部隊(志摩艦隊)は各々南方から栗田艦隊と同時にレイテ湾に突入する。
③機動部隊(小沢艦隊)は優勢な敵機動部隊を栗田艦隊からそらすために、囮となって北方へ誘い出す。
④航空部隊は、それに先立って、敵空母を攻撃し、レイテ湾突入艦隊に対する敵の航空攻撃を出来る限り阻止する。
以上のように連合艦隊の作戦は、主力艦隊による二方面からの殴り込み作戦と、そのための一艦隊(小沢艦隊)の全域をかけた囮作戦という「日本的巧緻の傑作」(『レイテ戦記』大岡昇平)というべきものであった。
栗田艦隊は、1日遅れた補給部隊から燃料の急速補給を行い、予定通り22日0800(時間)ブルネイからレイテに向けて出撃した。ブルネイ出港の翌朝(23日)パラワン水道通過中の栗田艦隊は、待ち伏せていた敵潜水艦2隻により魚雷攻撃を受け、戦艦「愛宕」を始めとして2隻の重巡洋艦が沈没、1隻が損傷した。
24日、シブヤン海に入った栗田艦隊は、敵戦闘機の五次にわたる猛攻撃を受け、主力戦艦の「武蔵」を失ったほか、重巡1、駆逐艦2を退陣させられた。24日は航空総攻撃日であるにもかからず、基地航空部隊からの攻撃はまったく功を奏していないようであった。栗田長官は第二航空艦隊(福留長官)に再三援助を要請したが何の応答もなかった。
栗田長官は、1530いったん反転して敵の空爆を避けることを決意した。この反転の報告は30分後に豊田連合艦隊司令長官、各艦隊司令長官に発伝された。その後、敵機はまったく姿をひそめた。そこで1714再反転を行ったが、その時点ですでに予定より6時間近くも遅れを生じていた。
この頃から連合艦隊司令部(横浜日吉台)と栗田艦隊、関係各艦隊の通信が不調となっていた。連合艦隊司令部は、栗田長官からの最初の反転報告伝を受け取るよりも前に、栗田艦隊、他の部隊に対し、不退転の決意を示すために「天祐を確信し全軍突撃せよ」という電報を打った。
25日、レイテ湾に向って南下した栗田艦隊は、12時過ぎから激しい空襲を受け始めた。まもなく栗田長官はレイテ湾を目前にしながら反転を命じた、この反転こそが後に「謎の反転」といわれるものであり、それは「捷一号作戦」の第一目標であるレイテ湾突入を最終的に中止するという重大な作戦方針の変更であった。
10分後の1236に長官は連合艦隊司令部に対し次のように打電した。「第一遊撃隊はレイテ泊地突入を止め、サマール東岸を北上し、敵機動部隊を求め決戦、爾後サンベルナルジノ水道を突破せんとす」。
この時点で海軍捷号作戦(レイテ海戦)は初期の目的を達成できないままに事実上終了した。
7 【沖縄戦】
大東亜戦争において硫黄島とともにただ二つの国土戦となった沖縄作戦は昭和20年4月1日から6月26日の間、第三二軍将兵約8万6400名と、米第十軍将兵約23万8700名とが沖縄の地において激突し、戦死者は日本軍約6万5000名、日本人住民約10万名、米軍1万2281名に達する阿修羅の様相を呈した。
圧倒的な物量を誇り、絶対制空・制海権を確保して来攻する米軍に対し、第三二軍将兵は沖縄県民と一体となり、死力を尽くして86日間に及ぶ長期持久戦を遂行し、米軍に多大の出血を強要してその心胆を寒からしめた。
しかし、第一戦将兵の勇戦敢闘とは裏腹に大本営をはじめとする上級司令部と、現地第三二軍との間には根本的な作戦用兵思想の乖離が存在し、これは作戦準備段階において調整されることなく、米軍の沖縄上陸直後において作戦遂行上重大なそごを来たすという問題を引き起こした。
とくに作戦成功の基本的な前提条件である作戦目的の統一という次元において、決戦か持久か、航空優先か地上優先かといった作戦の根本的性格をめぐる対立が存在し、大綱を掌握すべき上級統帥はその存在を見過ごし、本旨に反して米軍上陸後の作戦指導の細部に干渉せざるを得ない事態に陥った。
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1945年以来今日に至るまで、わが国は、国際社会の中における独立国家としての機能や役割を忘失してしまったままであるかのように見える。組織としての日本軍の失敗に籠められたメッセージの解読が、今日、なお教訓となっていない、あるいは教訓となりえないということだろうか。
わが国にとってもはや先行モデルや真似るべき手本がなくなってしまったといわれる。概念創造能力の不在を、第一戦現場での絶えざる自己超越や、実施段階における創意工夫による不確実性吸収だけでカバーすることができなくなってきたのである。
いまやフォローすべき先行目標がなくなり、自らの手で秩序を形成しゲームのルールを作り上げていかねばならなくなってきた。グランド・デザインや、概念は他から与えられるものではなく、自らが作り上げていくものなのである。
企業をはじめ、わが国のあらゆる領域の組織は、主体的に独自の概念を構想し、フロンティアに挑戦し、新たな時代を切り開くことができるかということ、すなわち自己革新組織としての能力を問われている。