『実践・老荘思想入門』 守屋洋 2009年9月 株式会社角川SSC
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中国思想の主流となってきたのは、儒教の教えである。その代表が孔子、孟子であって、この人たちは「儒家(じゅか)」と呼ばれ、仁、義などの徳を身につけ、それに基づく理想の政治を目指した。これに異を唱えたのが、老子と荘子を代表とする「道家(どうか)」である。
道家の主張を要約するとこうなる。「仁だ、義だと、声高に叫ばれるほど、社会の乱れはひどくなっている。そんなものにこだわるよりは、へたな作為や賢しらなど捨て去って、あるがままに生きたほうがよい、そのほうが社会もよくなるし、政治もうまくいく」。
老子によれば「道」は私たちの学びたい幾つもの徳を体現している。たとえば、無我、無心、無欲、謙虚、寡黙、素朴、柔軟といった徳である。私どももこういう徳を身につければ、どんな時代でも、たくましく、しなやかに生き抜いていくことができる、と老子は説いている。
荘子によれば「道」という広大無辺な立場から人間世界を眺めれば、すべて小さいのだという。それはちょうど宇宙船から地球を眺めた感覚であろう。小さな球形の物体のなかに、二百もの国があって、いつも争いが絶えない。小さい、小さいというわけである。
・賢(さか)しら 利口ぶる、知ったかぶりをする
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無用の用を発見せよ
人みな有用の用を知りて、無用の用を知るなきなり。(荘子) 人はだれでも「有用の用」は知っているが、「無用の用」には気づいていない。
あるとき、論敵の恵子(けいし)が荘子に向かっていった。「君の主張はなんの役にも立たんよ」。荘子が答えた。「私のいう無用の用がほんとうにわかってこそ、何が有用であるかがわかるんだ。例をあげよう」。
「この大地は広大無辺な存在だが、われわれの使うのは、足を置くほんのわずかな広さにすぎない。だからといって、今、足の寸法をはかり、その部分だけを残して、まわりの大地を深く掘りさげていけば、それでもやはりわれわれの役に立つものだろうか」。
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過ぎるのはよくない
善(よ)くする者は果たして已(や)む。以(も)って強を取ることなし。(老子) ほんとうの戦上手は、目的を達したらさっさと矛を収め、むやみに強がらない。
兵法書の『孫子』も、「囲師(いし)には必ず闕(か)く」(敵を包囲したらどこかに逃げ道をあけておけ)という。戦争の目的が敵を撃滅することにあれば、完全包囲もまたやむをえないが、そうなると、窮鼠猫を噛む反撃にあうかもしれず、犠牲を覚悟しなければならない。
しかし、多くの場合、戦争の目的は、敵を撃滅することにあるのではなく、敵の戦意をくじいて有利な講和の条件をかちとることにある。だとすれば、完全包囲は愚策以外のなにものでもない。
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流れに逆らうな
時に安(やす)んじて順に処(お)れば、哀楽入る能(あた)わず。(荘子) 時のめぐり合わせに身をまかせ、自然の流れに逆らわなければ、哀しみにも喜びにも心は乱されない。
これで思い出されるのは、孔子の生き方である。孔子は後世の儒者から聖人君子と持ち上げられてきたが、じつは貧窮のなかで育ち、長じて政治に志してからも、ほとんど不遇の状態で終わった人物である。そういう意味では、聖人というよりも苦労人といってよいかもしれない。
しかし、かれはそういう逆境のなかにありながら、慌てず騒がず、常に前向きの姿勢で、淡々と74年の生涯を生き抜いた。かれの場合、なぜそういう生き方ができたのかといえば、「命」(めい)の自覚に待つ(期待する)ところが大きかったようだ。
「命」とはまた「天命」ともいう。われわれの人生には、どうあがいたところで、どうにもならない部分が必ず残る。それが「命」である。天の意思、神の摂理といってもよい。(略)『荘子』がここで、「時に安んじて順に処る」と語っているのも、それとほとんど同じような意味である。
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禁令ばかりふえると
天下に忌諱(きき)多くして、民いよいよ貧し。民に利器多くして、国家ますます昏(くら)し。人に技巧多くして、奇物ますます起こる。法令ますます彰(あきら)かにして、盗賊あること多し。(老子)
禁令が増えるにつれて人民は貧しくなり、文明が進むにつれて社会は乱れていく。技術が進むにつれて不幸な事件が絶えなくなり、法令が整えば整うほど犯罪者がふえていく。
漢の高祖・劉邦は諸県の長老や有力者を集めてこう約束した。
「諸兄は長いあいだ秦の苛酷な法に苦しめられてきた。私は今、関中の王となったが、ここで諸兄に約束しよう。法は三章だけとする。人を殺した者は死刑、人を傷つけた者、盗みを働いた者は処罰するが、秦の定めたもろもろの法は廃止する」。
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止足の戒め
足るを知れば辱しめられず、止(とど)まるを知れば殆(あや)うからず。(老子) 足ることを心得ていれば辱しめ(恥をかかされる、名誉を傷つけれられる)を受けない。止まることを心得ていれば危険に身をさらすことはない。
控えめにしていれば辱しめを受けない、限度を心得ていれば危険はない、と老子は言うのであるが、『荘子』には、もう少し具体的に、人間を窮地におとしいれる八つの要素(八極)と、これさえ守れば身の安泰が保証されるという三つの条件(三必)があげられている。
人間を窮地におとしいれる八つの要素とは、顔かたちが整っていること。立派な髭をたくわえていること。背がすらりとして高いこと。恰幅がよく貫禄があること。威勢がよいこと。華々しいこと。勇気があること。決断力に富んでいること。
つぎに、身の安泰が保証される三つの条件とは、自分に固執せずに相手に順応すること。相手に調子を合わせて無理をしないこと。臆病者の精神に徹して万事控え目に振るまうこと。
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なぜ貧しいのか
士、道徳ありて行なう能(あた)わざるは憊(つか)れたるなり。衣(い)破れ履(り)穿(うが)てるは貧なり。疲れたるに非ざるなり。これ所謂時に遭うに非ざるなり。(荘子)
男子たる者、すぐれた道徳を身に着けていながら、それを世に行うことのできないのを疲れているという。衣服が破れ履(くつ)に穴があいているのは、貧しいのであって疲れているのではない。貧しいのはいわゆる時節にめぐりあわないからである。
孔子も、荘子とほとんど同じ見解に立っていた。--雑炊をすすり白湯を飲み、肘を枕にごろ寝する。こんな貧乏暮らしのなかにも、楽しみがないわけではない。それにひきかえ、わるいことをして金や地位を手に入れ、派手な暮らしをするのは、私から見れば空に浮かぶ雲みたいなものである。
--人間の努力目標が富の追求にあるというのなら。私もそのように努力しよう。そのためにはどんな賤しい仕事でも厭わない。だが、富が人間の努力目標でないとすれば、私は自分の行きたい道をえらぶ。
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こだわらず、とらわれず
至人(しじん)の心を持ちうるは鏡の如し。将(おく)らず迎えず、応じて蔵(おさ)めず。(荘子)
至人の心の動きは、鏡のようなものである。すぎ去ったことはいつまでも思い悩まないし、遠い先のことまで頭を痛めることもない。来るものはそのまま映し出すが、去ってしまえばなんの痕跡もとどめないのである。
「期待される人間像」つまり理想的人格を『老子』では聖人、『荘子』では至人とか、真人(しんじん)とか呼んでいる。真人は、逆境にも不満を抱かず、栄達を喜ぶでもなく、万事をあるがままにまかせて作為を施そうとしない。失敗しても気に病まず、成功しても得意がらない。
真人は、生に固執せず、死をも忌避しない。この世に生を受けたからといって喜ぶこともなく、この世を去るからといって悲しむでもない。ただ無心に来たり、無心に去り行くのみである。自身の存在をも一個の自然現象とみなし、死についてもあれこれと心を煩わさない。
真人は、変転する外界の事象に自在に応じてゆくが、決して仲間を作ろうとしない。人に先んじようとはしないが、かといって意識的に下風に立とうとするわけでもない。つねに独自性を失わぬが、かたくなではない。一切を受容するおおらかさを保って、しかも素朴である。