『心に迫るパウロの言葉』 曽野綾子 1989年4月 新潮社
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パウロの思想は、その死後、数千年にわたって全世界の人々をゆさぶり続けるが、現世における彼の生涯は決して平穏なものでもなく、成功者のものでもなかった。
パウロは本当は秀才で、そのまま行けばユダヤ教の有名な先生(ラビ)になれた筈であった。それなのにまず一時的に失明して、それ以来視力は衰えたままだったし、新興宗教のキリスト教に「ひっかかった」ために、道をあやまって、さまざまな人にいじめられ、あちこちの町を追われ、何度も投獄され、ついにはローマに引いて行かれ、ネロによって首を斬られた、と恐らくユダヤ教徒の間では言われていたに違いない。
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「わたしたち強いものは、強くない人たちの弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません」とパウロは「ローマ人への手紙15.1」で言う。実に簡潔な表現でいて、実に私たちのうちのほとんど誰もが果たしていない行為である。
この表現の中で「担う」という言葉には、ギリシア語のバスタゼインという動詞が使われている。バスタゼインにははっきりと「耐え忍ぶ」という意味があり、更には「持っている自由さえ、相手のことを思って使わない」ことまで含まれるのである。
誰が他人のために自分が「耐え忍ぶ」と言っていいほどの犠牲を払っているだろうか。あるいは「自分の金は自分の自由に使ってかまわない」という常識の原則を超えて、使いたいお金も使わずに、それを他人のために使うことがいかに難しいことか。
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キリスト教の思想が決して単純であっていいということではないことは「マタイによる福音書」の「へびのように賢く、鳩のようにすなおになりなさい」(10.16)というイエズスの言葉に表されている。
「兄弟たち、物の判断においてあなたがたは子どもであってはいけない。悪事については幼い子どものように純真でありなさい。しかし、物を判断することにおいては一人前の者となりなさい」(コリント人への第一の手紙14.20)
トマス・アクイナスは「すべての存在するものはよいものである」と言った。これは、考えれば考えるほど恐ろしい言葉だが、真実である。それを理解するには決して「子供っぽく」てはできない。私はもっと深く謙虚に不純な人間にならねばならないのである。
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私にとって、「あの方は好きなことをなさったんですよ」というのは深い尊敬の言葉である。なぜなら、世間では、ほんとうに好きなこと(こうありたい、と自分に願っていること)をできる人はそんなに数が多くはないからである。
「実に、わたしにとって生きるということはキリストであり、死ぬことはまさにもうけものです。しかし、もし、この肉体で生きながらえるとすれば、それは、わたしにとって実りある働きを意味します。ですから、どちらを選ぶべきとも言うことができません。
この二つのことの板ばさみの状態です。わたしとしては、この世を去ってキリストとともにありたいとせつに望んでいます。そのほうがはるかによいからです」(フィリピ人への手紙1.21~25)
私はやはりあまり遠慮せずに言いたいのである。パウロもあまり、この世をいいところとは思っていなかった。だから、死に希望をかけた。幸せもいいものだけど、不幸もいいものだ。不幸は現世に対する執着から私たちを身軽にしてくれるのだから、と。
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「兄弟の皆さん。真実であること、尊ぶべきこと、神のみ前に正しいこと、清いこと、愛すべきこと、評判の良いこと、また、なんらかの徳や称賛に値することは、すべて心に留めなさい」(フィリピ人への手紙4.4~9)
自分がすばらしいことに出会ったという事実を、常に心に留めておけば、死ぬ時も思い残しがない。つまり死に易くなる。そして自分の生涯を納得し、満ち足りて死ねるように準備するということは、この世で出世すること以上の大事業なのである。
私たちは死んだ後も金持ちなのではなく、貧しいのでもない。とすれば、すくなくとも現代の日本では、私たちにほんの少し「耐えることができる」という健やかさがあれば、物質的な状況はどちらに転んでも大したことはないのである。
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「あなたがたは『古い人』とその行いを脱ぎ捨て、深い知識へ進むようにと、創造主の姿にかたどって絶えず新しくされる『新しい人』を身にまとっているのです」(コロサイ人への手紙3.5~10)。
どうしたら「古い人」を脱ぎ捨てられるか、と訊かれても私は答える術を知らない。ただ古い人を着ている限り、そこには、欠乏感と喪失に対する不安がつきまとい「新しい人」を着た時から、自由と楽しさと明確な生の目標ができるということは確実だということだけはわかっている。
それが分かっていれば、今すぐうまくはいかなくとも、いつか、そこへ行き着くことができるかもしれない。人間は、いくら年を取っていても、死の前日でも、いつでも生き直すことができるはずなのである。
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「人の行動にはいつも理由がある。粗野な人、失礼な人、気むずかしい人には心配ごとがあるか、他の苦痛があるのかもしれない。(中略)人を非難する前に、その人を理解しようと努めれば許すことも容易であろう」ウィリアム・バークレー(宗教学者、牧師)
「感謝の人」というのは最高の姿である。「感謝の人」の中にはあらゆるかぐわしい要素がこめられている。謙虚さ、寛大さ、明るさ、優しさ、楽しさ、のびやかさ。だから「感謝の人」のまわりには、また人が集まる。「文句の人」からは自然に人が遠のくのと対照的である。
私たちが人と会う時間というのは、光栄ある特別の時間なのである。それは、私たちがだらだらと家事をしたり、テレビを見たり、昼寝をしたり、週刊誌を眺めたりするような、惰性で過ごすような時間とは全く違う。
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「あなたが畑で穀物を刈るとき、もしその一束を畑に置き忘れたならば、それを取りに引き返してはならない。それは寄留の他国人と孤児と寡婦に取らせなければならない。そうすればあなたの神、主はすべてあなたがすることにおいて、あなたを祝福されるであろう」申命記(24.19)
「(前略)神がお造りになったものはすべて善いもので、感謝してこれを受けるときは、何一つ捨てるものはありません」(テモテへの第一の手紙4.1~4)。
人間の性格は、神から一人一人に与えられたもので、たとえそれは、ひどい運命のように見えても、贈られた人がそれを使いこなすすべと意欲さえあれば、すべて善きものになりうる、という保証つきのものなのである。