『憲法という希望』 木村草太 講談社現代新書 2016年9月
「法律は、過去さまざまなトラブルの経験から、そうしたトラブルが発生しないようにし、よりよい解決を導くにはどうしたらよいか、を徹底的に考えて作られている」と著者は述べます。しかし、法律は、今、日本の政治の中枢で起きている様々な問題(不祥事)に関しては、手も足も出ないようにも見える。法律にはまだまだ、伸びしろがあるのだ。(2018/04/30)
第一章 日本国憲法
第二章 人権条項を活かす
第三章 「地方自治」は誰のものか
第四章 対談「憲法を使いこなす」には(国谷裕子 X 木村草太)
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立憲主義とは、ごく簡単に言えば、過去の権力側がしでかした失敗を憲法で禁止することによって、過去の過ちを繰り返さないようにしよう、という原理のことです。
憲法とは何なのか。ホッブスは議論の出発点として「人間の平等」について語ります。人間の平等というと、何か崇高な感じがするものですが、ホッブスの語る平等はちがいます。「人間は平等でなければならない」という規範的な議論ではなく、「人間は事実としてみんな平等なのだ」という事実認識の話をしているのです。
自然世界において、強い個体が弱い個体に絶対負けないのであれば、序列が明らかになり、秩序は安定するでしょう。しかし、人間は平等で、最も弱い個体でも(工夫を凝らせば)最も強い個体を殺すことができる。だから、秩序が安定することはありません。
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ホッブスは、混迷する社会は人間の本質に照らして当然の結果だと分析しました。国家の第一段階である自然状態は万人の万人に対する闘争である、というのが近代国家論の出発点になります。
こうした自然状態から生じる混乱は、誰にとっても得になりません。だから、「暴力を独占する絶対的社会=主権国家」を作って、暴力を集中管理し、秩序を作りだす必要があります。これが、近代国家の第二段階です。
もっとも、秩序が生まれれば、人々が安心して暮らせるかというと、そんなことはありません。混乱の後には、人々は、権力者の横暴の危険に脅えることになります。こうした主権国家による権力の濫用を防ぐ試みが、立憲主義の試みです。これが、近代国家の第三段階ということになります。
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そもそも、日本国憲法とはどんな力を持った憲法なのか。憲法九八条一項と九九条には次のように書いてあります。
憲法九八条一項 この憲法は、国の最高法規であって、その条項に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
・詔勅(しょうちょく/天皇の意思を表示する文書)
憲法九九条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官、その他の公務員は、この憲法を尊重・擁護する義務を負ふ。
これらの条文を見ると、憲法は「最高法規」であり、それに違反する法律や命令を出してはいけない、公務員はそれに従わなくてはならない、ということが分かります。もっとも九八条一項は、単に「私が最高法規だ」と自称しているだけです。なぜ最高法規なのかはわかりません。
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憲法が最高法規である理由は、その前に置かれた憲法97条に書かれています。
憲法九七条 この憲法が日本国民に保証する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
つまり、「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果である大切な人権を保障する」法だからこそ、最高法規であり、公務員はそれを尊重・擁護しなければならない、と宣言しているわけです。これは、国家が繰り返してはいけない失敗のリストとしての立憲主義の宣言でもあります。
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日本も他国と同様に、「無謀な戦争」、「人権侵害」、「権力の独裁」という三大失敗を経験してきました。特に戦争に関わる失敗は深刻でした。そこで日本国憲法は第二章「戦争の放棄」を定めています。それが有名な憲法九条です。
九条は戦争・武力行使を禁じる一項と、戦力・軍・交戦権の保持を禁じる二項からなります。
憲法九条一項 日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
憲法九条二項 前項の目的を達するために、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。
この条文は解釈の仕方が二つあると言われます。
第一の解釈は、一項であらゆる武力行使が禁じられるというもの。第二の解釈は、一項が禁ずる「国際紛争の解決のための」武力行使には、侵略に対する防衛のための武力行使は含まれないが、二項があらゆる戦力の保持を禁じているため、結局、すべての武力行使が禁じられる、というものです。
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自衛権には、侵略の被害国が自らの防衛のための武力行使を正当化する「個別的自衛権」と、被害国の防衛を援助するための武力行使を正当化する「集団的自衛権」の二種類があります。
憲法十三条は「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」が「国政の上で、最大の尊重を必要とする」と規定しています。日本政府が侵略を放置し、国民が虐殺されるのを黙って見ていたら、それは国民の生命を最大限尊重しているとは言えません。政府はこの解釈に基づき、自衛隊・個別的自衛権の行使の合憲性を説明します。
これに対し、日本国憲法の端から端まで探しても、外国の防衛を援助するために武力行使を認める根拠になりそうな規定はありません。このため、国連軍への参加や、集団的自衛権の行使は憲法九条に違反するとの解釈が一般的でした。
また、集団的自衛権の行使を一部認めたとされる2015年の安保法制には、違憲の疑いが強くかけられています。
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(沖縄普天間基地の代替施設に関して)国会が辺野古に基地を建設しようと決めたことはありません。当時の内閣(小泉内閣、鳩山内閣)が内閣の重要事項として閣議決定という形で決めたことです。しかし、これは「統治機構論」として問題があるのではないかという疑問が生じてきます。
「統治機構論」は「この権限は誰の権限なのか」を議論する分野です。立法は国会の権限です。(略)大きな基本方針について法律で定めたら、あとは、内閣の判断で決めてよいこと、各省庁、地方自治体の判断で決めてよいことなど、無限に権限配分の問題が生じます。
そういう観点から見たとき、米軍基地の設置を内閣の判断のみで決めてよいのか、非常に疑問があります。というのも、米軍基地の設置は、地元の自治体にとって、非常に大きな自治権の制約になるからです。
辺野古に新たな米軍基地を建設するならば、憲法四一条、憲法九二条に基づき辺野古基地設置法のような法律を制定しなければなりません。さらに憲法九五条によって、地元自治体の住民による住民投票も必要になるでしょう。名護市はもちろん、沖縄県の住民投票も必要になります。
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なぜ私は、基地建設に内閣の閣議決定だけでなく、国会による法律の制定と地元住民による住民投票が必要と考えるのか。もちろん、法律や住民投票を求めれば、国民や住民の間の意見対立が明らかになって、議論はまとまりにくくなるでしょう。
しかし、どんなに大変であっても、大事なことを決定する時には、多様な意見に耳を傾けながら、より良い解決策を見つけていくのが民主主義の基本的な姿勢です。権力者の側が多様な意見に耳を傾けることによってはじめて、個人の尊重がなされるのです。
沖縄の人々は、しばしば「沖縄の基地問題は本土の人による沖縄差別だ」と言います。多くの本土人からすれば、差別する気持ちなど全くないと思います。しかし、本土の人が選んだ国会議員は、沖縄の基地負担を平等にすることに関心を示さない。それは、国会議員を選んでいる私たちの無関心でもあります。
「統治機構論」は、主権者である国民が憲法を通じて国家機関にどのような権限を与えているのかを考える学問です。どのような統治機構のほうが、より憲法の定めに合致するのか、より国民のためになるのか。皆さんにも、ぜひ真剣に考えていただきたいと思います。