書を捨てよ、町へ出よう(寺山修司)

『書を捨てよ、町へ出よう』 寺山修司 角川書店 1971年
 


 
 
 

1/9
ぼくは速さにあこがれる。ウサギは好きだがカメはきらいだ。ところが親父たちはカメに見習えというのだ。カメの実直さと勤勉さ、そして何よりも「家」を背中にくっつけた不格好で誠実そうな形態が、親父たちの気に入るのだろう。
 

どうして親父たちが速いものを嫌いなのかといえば、それは親父たちが速度と人生とは、いつでも函数関係にあるのだと思い込んでいるからである。あらゆる速度は墓場へそそぐ、だからゆっくり行った方がよい。人生ではチサの葉一枚でも多く見ておきたい、というのが親父たちの幸福論というわけなのだ。
 

何しろ、速度はぼくたちの世代の「もう一つの祖国」であり、とても住みやすいものだ。J・ブルボンは旧世代に向って「ぼくらにとって人生は英雄的な事業ではなくなった」と宣伝しているが、この心情は時速500キロで、歴史を乗り捨てる意気地から生まれたものだということがわかるだろうか、親父よ。
 
 
 
 
 

2
快楽は、それを得たものの財産である。ひとは、誰とでも寝る「自由」があり、その障碍になるのは行方不明の神でも、正常という名の惰性的習慣でもない。ただ、嫉妬だけが恐ろしいという点で、ぼくたちの見解は一致している。もし、嫉妬さえなくて済むなら、性に関する様々なタブーは、一気に瓦解してしまうだろう。
 

そして、ぼくたちは寝たいと思った相手が親父であれ、母さんであれ、先生であれ、初対面同士であれ、まるで一匙のコーヒーを飲むように気軽に愛撫しあうようになるにちがいない。道徳などというものは、所詮は権力者が秩序と保身のために作り出すものにすぎないということは、今では知らないものはいないのだから。
 

誰とでも性交を、そういうと、あなたは、ますます眉をひそめて舌打ちするが、性交の楽しみ、意外性のたのしみ、そして想像のたのしみであることを知るならば、(略)あらゆる性の可能性がそのまま人生の実相にふれるものであると、悟ってもいいのではないですか、親父さん。
 
 
 
 
 

3
少しでも金が入ったら、賭博してみよう、とぼくがいうとき、親父たちはその無鉄砲ぶりにあきれた顔をする。「たとえ儲かっても」と賭博反対論者の親父はいう。「悪銭は身につかず、だ。働いたものでない金など、決してひとを幸福にすることなどないだろう」と。
 

そんなとき、ぼくたちは経済暴力としての一点豪華主義について考えるわけである。住居は橋の下の毛布一枚でもいいから、欲しいスポーツカーは手に入れる。三日間の食事はパンと牛乳一本にして、四日目には「マキシム」へ乗り込む。
 

ぼくは低賃金労働者にとって、銀座のクラブの一夜、一皿の燕の巣のスープ、ハワイ旅行、そしてまたアフリカの独立運動が(略)一点豪華主義の産物であることを親父たちにもわかってもらいたいと思うのだ。一点豪華主義は現実原則から、エロス的なもう一つの現実へと「時」の回路をつなぐ。
 
 
 
 
 

4
なにが、老人の日なものかとボクは思った。現代はまさに実権を掌中におさめた横暴の「老人の時代」じゃないか。55歳で会社を定年退職。あとはさびしい孤独な老人!というのは見せかけだけで、現実はまったくアベコベ。
 

たとえば、わが国の内閣閣僚を見てごらん。老人じゃない大臣が何人いるか。みんな”いたわりとなぐさめを必要とする”世代に属している筈の老人ばかりでなのである。そして、その老人たちに政治的主導権をにぎられて、そのうえ、性的主導権まで侵されつつある。
 

ボクは単純なフロイト主義ではないつもりだが、欲望なしでは未来を手に入れることはできないと思っている。キミたちは、そのタマのなかにあふれている性的エネルギーを武器として、性の領域から手始めに反撃していかないと、老人たちの思うままになってしまうだろう。
 
 
 
 
 

5
私たちは「正義」が政治用語であると知るまで、長い時間と大きな犠牲を払わなければならなかった。(略)正義と悪とは、常に相対的な関係であり、同じ行為が正義として扱われたり、悪として取沙汰されるのは、それを取り囲む状況、政治の問題だったからである。
 

法と正義が維持されているときには、「味方」など必要はなく、それがだれかによって破られたときにのみ、法と正義の味方としての月光仮面が呼び出される。大衆は、自分たちで法と正義の検証などにふみこむことをせず、あらかじめできあがったそれを守るために月光仮面を働かせる。
 

月光仮面も少年探偵団も、ベトナム戦争のような国際的な事件には出勤できない。そこでは正義と悪が複雑に交錯し、お互いに正義を名乗りあっているので、そこに参加するものは自ら「正義」の選択を迫られるのだが、月光仮面も少年探偵団もそれを見きわめる「正義観」などもつことができなかったのである
 

月光仮面の「おじさん」は「正義の味方だ 良いひとだ」というとき、私たちは「正体もあかさず、疾風のように去ってゆく」うしろめたい仮面の男を疑わないわけにはいかないのだった。
 
 
 
 
 

6
一人の青年がヨットで太平洋を横断したとき、人たちは彼を「英雄」扱いした。だが、この青年は英雄になりたかったのではなく、ただ自分自身からの逃亡をはかったにすぎない。だから、青年はマゼランのように何かを「発見」することもなく、ただ「太平洋ひとりぼっち」という逃亡の記録を書いたにとどまった。
 

私は、どこにも逃げ場などないのだ、ということをひしひしと感じていた。それは、ただ歴史に幻滅したあとの地理によせるロマンチシズムにすぎないのだ。
 

どこにも行けないとなったら、覚悟をきめなければならない。それは、中学校の教科書で教わった「山椒魚」の思想である。先生は、井伏鱒二のこの小説を通して「人生は居直りである」と教えてくれた。
 

「小さな穴から入ってきた山椒魚が、中で成長して大きくなってしまったら、もう同じ穴から出ていくことは出来ないし、かといってもう一度、小さなからだに戻ることも出来ません。”こうなったら、俺にも覚悟がある”といって穴の中で居直る。この居直り方が問題なのです」
 
 
 
 
 

7
一口に断定すればライスカレー人間というのは現状維持型の保守派が多くて、ラーメン人間というのは欲求不満型の革新派が多い。それは(インスタント食品を除くと)ライスカレーが家庭の味であるのに比べて、ラーメンが街の味だからかもしれない。
 

サラリーマンは歩兵である。つまり、満員電車と会社とマイホームの往復を一駒ずつ一進一歩してゆく。しかし、将棋において歩兵は一度ひっくり返るとたちまち金将になることもできるのである。これは出世の喩ではなくて、もっと大きな、たとえば「価値の問題」としてである。
 

ライスカレーとラーメンの小競合いから、一気に生き方全体への問題にまで立ちもどるときに、二つの食物の差が大きなサラリーマンの理想にまで発展する可能性を持ちはじめるのだ。
 

サラリーマンの「幸福論」は、ライスカレーの中などに見出されるべきではない。「幸福」について、もっともっと流動的なイメージを持たぬ限り、歩兵は一歩兵のままで終わることになる。
 
 
 
 
 

8
蕃殖入りして名を変えてしまった馬は少なくない。母をたずねて三千里のエピソードではないが、ハクフジ・ファンだった男が、ハクフジの子がレースに出る日に競馬から足を洗うと心に決めて、その日を心待ちにしている、という話を聞いた。
 

その男は、「ハクフジの子がレースに出たら、おれはその馬券に十万円を注ぎ、勝っても負けてもそれで競馬を止めるつもりだ」というのである。酒場でバッタリその男に会うと、彼はひどく酔っていて(略)「おれの競馬はハクフジではじまり、ハクフジで終わるんだ」という。
 

そこで私が「ハクフジの子なら、ちょくちょくレースに出ているよ」というと男は、「それは何という馬だ?」と聞き返してきた。「ビッグオーシャンですよ」と私が答えた。「ビッグオーシャン?それは、キャデラックの子じゃないか?」と男がいう。
 

「キャデラックというのが、ハクフジの変名なんですよ」と私がいう。すると男は、みるみる顔を青ざめさせて「あいつめ、おれをダマしやがった!」」といってカウンターにグラスを叩きつけたのであった。
 
 
 
 

9
賭けることは、一つの思想的行為である。それは一点豪華主義ともいったもので、サラリーマンの平均化された日常生活、バランス化された経済生活、平穏無事さの不条理、何か面白いことはないかと思いながら、しかし何も起こらない毎日に、突然訪れてくる「事件」のようなものだ。
 

誰もが安定した生活という名の平均化を求め、そして誰もが同時に画一化からまぬがれたいと思っている現代社会にあって、実人生では手に入らない「栄光と悲惨」を一手にひきうけてくれる虚構の生死、オートレース・ギャンブルの「速度」は、そのまま時代感情の反映だということもできるだろう。
 

なんでも中位という幸福論から、他を捨てて一つを選ぶという幸福論への転移をすすめるとき、何よりもまず賭博の目が必要とされてくる。それは自分自身を追い抜く「速度の思考」でもあるだろう。速度と賭博の切っても切れない関係を見抜くことが、とりも直さず生きがいの回復につながることだと思うのだ。