『未来のプロフィル』 アーサー・C・クラーク 福島正実 川村哲郎/訳 1966年2月 早川書房
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過去において、一見有能と見えた人々が、なにが技術的に可能で、なにが不可能かという法則をたてた、そのインクがまだ乾かないうちに、その法則がまったくの誤りであったことを見せつけられた。
注意深く分析すると、こうした醜態は二つに分類できるようである。私はこれを”勇気の不足”および”想像力の不足”と呼ぶことにしている。このうちで”勇気の不足”がより一般的であるようだ。自称預言者は、必要な事実をすべて与えられていながら、それが不可避的な結論を指しているのがわからなかった。
史上最初の機関車が建造されたとき、批評家たちは、時速30マイル(約48キロ)に達するスピードで走ったら、人間は窒息死してしまう、と真面目くさって主張したものだ。こうした時代の精神風土を思い起こすことは今日、すでに不可能である。
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(原子物理学の父と呼ばれた)ラザフォード卿はしばしば、物質の中に閉じこめられているエネルギーを利用することのできる日が、いつかきっと来ると主張する学者たちを、大ぼら吹きと呼んでいた。だが1937年に彼が永眠してわずか数年を出ずして、世界最初の連鎖反応がシカゴで始められた。
ラザフォードがその驚くべき洞察力を持ってしても見抜けなかったのは、原子核反応を起こさせるのに必要なエネルギーよりも、それによって起こされたエネルギーの方が、はるかに大きい核反応が発見されたことだ。
ラザフォード卿の例は、ある問題の将来について、もっとも信頼し得る方向を指示できるのは、必ずしもその問題についてもっともよく知っている人物でも、またその分野の権威として認められている人物でもない、ということである。あまりに大きな知識の重圧は、想像の翼を折ることがある。
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<古典的>科学の崩壊は、すでに1895年、レントゲンのX線の発見から事実上始まっていた。ここに、もう、この宇宙の常識的な構図が結局ナンセンスであったという事実の、最初の明瞭な兆しが、誰にでもわかるかたちで現れていた。X線は、この名前自体に科学者の狼狽ぶりがあらわされている。
X線は、可視光線が板ガラスを通り抜けられるのと同じように、物質を貫通することができた。ましてや、この光線によって人間の身体の内部を透視し、医学と外科手術とに一大革命を起こすということなど、どんな大胆な予言者でも、夢にも思わなかったのだ。
X線の発見は、人間精神がかつてあえて試みようとしなかった領域への最初の偉大な進出だった。けれどもそれは、それよりもなお一層驚くべき発見の続出することを、暗示しはしなかった。たとえば放射能にして然り、原子の内部構造にして然り、相対性原理、量子力学、不確定性原理にして然りなのだ。
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記憶について考えてみよう。頭脳が一生の間に蓄積することのできる事実または印象の数については、信頼するにたる概算を行った人はいない。だが、人間はどんなことも忘れない、ただ、すぐには思い出せないのだということを示す注目すべき証拠ならばある。
モントリオールのワイルダー・ペンフィールド博士らの著書は、長らく失われていた記憶が脳のある領域に電気的刺激を与えることにより、映画が心の中で再演されていくように回復されることを、劇的なかたちで実証した。
被験者は過去の経験を、視覚、嗅覚、聴覚の細部にいたるまで生々しく再体験するのだが、しかも、それがどこまでも記憶であって、現在起っていることではないことを知っている。
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人生の一刻一刻に吹雪さながらに注ぎ込まれてくるさまざまの印象を、頭脳がどのようにして濾過し、蓄積するかをもし知ることができれば、記憶を意識的に、あるいは人工的に調整することができるかもしれないのだ。
30年前のある時刻に読んだ新聞のあるページを再読したいときは、適当な脳細胞に刺激を与えれば、そのとおりのことができるのだ。ある意味でこれは、過去への一種の時間旅行・・おそらくは実現可能な唯一のそれかもしれない。
過ぎ去った昔に立ち帰り、なつかしい喜びを甦らせながら、その後に得た知識の光をあてて古い悲しみを和らげ、かつての失敗を真の意味での教訓とすることができるようになれば、それはどれほど素晴らしいことだろう。
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SF作家が発明したもので<機械教師>と命名した装置は、作家や画家が描写しているように、美容院に据えられた旧式のパーマネント・ウェーブの装置に酷似しているが、この場合は頭蓋骨の内部の物質の上に、その働きを及ばすものである。
<機械教師>は、それがなかったら一生かかるような知識と技術を、ほんの2、3分間で頭脳に教え込むことができるのだ。これとよく似ているのがレコードの製造だ。1時間を要する音楽の演奏も、レコード盤には1秒で刻み込まれ、そのプラスチックは、演奏曲目を完全に記憶してしまう。
この世の知識は10年ごとに倍増し、しかもその速度自体が増大しつつある。われわれはまもなく、いかに生くべきか学び終わる前に老死しなければならなくなるだろう。そんなことになれば、人類文化全体は、理解不可能な複雑さのために崩壊してしまう。
<機械教師>が、実際にどんな働きをするのか見当もつかないので、むしろあらゆる技術の複合体になるだろうと暗示するに留めるほかはないが、しかし<機械教師>そのものが発明されるであろうということにはかなりの確信がある。もし発明されなければ、人類文化の終焉が迫ってくるのである。
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我々は、日常使いなれた感覚で周囲の環境を完全に認識できるものと考えているが、実はこれほど事実を去ること遠いことはないのだ。感覚で捉えうる範囲を超えた世界では、人間は完全につんぼ(耳が聞こえない)であり、色盲である。
犬の世界はにおいの世界である。イルカの世界は、視力と同じくらい豊かな意味を持つ可聴音波の奏でる大交響曲である。(略)どぶどろの河中には、自然界におけるレーダーの原型ともいうべき電界を形成して、不透明な世界を探知する盲目の魚が棲んでいる。
そのような感覚的印象が、かりにわれわれ人間の頭脳に与えられたとしても、はたしてそれを翻訳して、理解することができるだろうか。もちろんできる。それはしかし、充分な訓練を積み重ねてからの話である。どんな感覚もその活用の仕方を自分で学習しなければならない。
脳の背後の精神は、まず最初に、そこに伝えられる刺激の分析と分類を行い、外部から届くほかの情報との比較検討を行わなければならず、そうして首尾一貫した心象をかたちづくるのだ。かくてようやくほんとうに見ることができるのである。
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猿人が発明した道具は、彼らの後継者をホモ・サピエンスへと進化させた。しかるに、われわれが発明した道具は、それ自体がわれわれの後継者なのだ。
生物学的進化は、よりはるかに急速な進化・・技術進化に席を譲ったのである。つまり、愛想のない言い方だが、機械(マシン・サピエンス)が人間の後を継ごうとしているのである。