白洲次郎 占領を背負った男(北康利)

『白洲次郎 占領を背負った男』 北康利 2005年8月 株式会社講談社
 


 
 
 

1/8
彼は吉田茂に見込まれ、戦後、日本復興の推進役として辣腕を振るった人物である。”プリンシプル(原則)”を大事にし、筋の通らない話には相手が誰であろうと一歩も引かなかった。正子は次郎のことを「直情一徹の士」「乱世に生きがいを感じるような野人」と評している。
 

入学したケンブリッジ大学で試験を受けた際のこと。授業で教わったことを徹底的に復習していた彼はテストの結果に自信を持っていた。ところが返ってきた点数を見てがっかりした。案に相違して低かったのだ。不満げに答案を仔細にながめてはっとした。
 

そこには<君の答案には、君自身の考えが一つもない>と書かれていたのだ。頭のてっぺんから足先までびりびりっと電流が流れたような気がした。(これこそオレが中学時代疑問に思ってたことへの答えじゃないか!)痛快な喜びがこみ上げてきた。
 
 
 
 

2
人の出会いとは実に不可思議なものである。(略)次郎もまた、牛場という幼馴染がいたことで近衛(文麿)との出会いが生まれたわけだが、正子を妻に選んだことにより、もうひとつの決定的な”出会い”へと導かれていく。その相手こそ、戦後の大宰相吉田茂その人であった。
 

昭和七年、松岡洋右が国際連盟総会に全権として参加することとなった。吉田は松岡に向かって「あなたはドイツしか、見えていないようですが、出かける前に頭から水でも浴びて少し落ち着いてから行かれてはいかがですかな」。と言い放った。
 

松岡と言えば当時飛ぶ鳥を落とす勢いで、外務省を牛耳っていた人物である。吉田の懸念は果たして現実のものとなる、昭和八年二月四日、松岡は国際連盟総会の場から芝居がかった退場をし、その後わが国は国際連盟を脱退、国際社会の中で急速に孤立していく。
 
 
 
 

3
マッカーサーの伝説は陸軍士官学校(ウエストポイント)を99.33という驚異的な得点で合格したときに始まった。ちなみに二番は77.9点だったという。彼は同校を平均点98.14という創立101年の歴史の中で最高の成績で卒業した。自信に満ち溢れ、強烈な野心の持ち主であった。
 

吉田は外相就任直後から外務省の大改革を行っていた。局部長以上に辞表を書かせて人事を一新した。その上で吉田は昭和20年12月、次郎を終戦連絡事務局参与に任命するのである。大抜擢だった。「戦争に負けて外交に勝った歴史もある、ここからが正念場だからな」吉田は次郎に期待をこめてそう語った。
 

次郎の最大の交渉相手がGHQ民政局である。彼が指摘していることだが、”民政局”という日本語への翻訳は”占領軍”を”進駐軍”と呼んで国民のショックをやわらげたのと同じであり、本来は文字通り”統治する”ことを目的とした部局であった。
 
 
 
 

4
国際法の基本条約であるハーグ条約には次のような規定がある。<国の権力が事実上占領者の手に移りたる上は、占領者は、絶対的の支障なき限り、占領地の現行法律を尊重して、成るべく公共の秩序及び生活を回復確保するため施し得べき一切の手段を尽くすべし>。占領軍主導で憲法改正を進めることは明らかにハーグ条件違反である。
 

昭和21年2月13日、ホイットニーは次のように話し始めた。

「先日あなた方から提出された憲法改正案は、自由と民主主義の観点からみてとても容認できるものではありません。しかし、最高司令官は日本国民が過去の不正と専制政治から守られるような自由で啓発的な憲法を熱望していることを十分理解しておられます。ここに持参した憲法草案(マッカーサー草案)こそ、日本の人々が求めているものであるとして、最高司令官があなた方に手渡すようお命じになったものです」。
 

ハーグ条約を盾にして、GHQから憲法案を押し付けられようとしている事実を公表し、国際世論を味方につけるということもできたかもしれない。だがその際はソ連などが介入して占領政策は混乱し、ドイツのように分割統治された可能性は高い。このあたりの判断は極めてデリケートな問題だろう。
 

古関彰一は著書『新憲法の誕生』で次郎の役割に触れ、<憲法制定のこの役は、結果的には”汚れ役”になったのであるから、吉田が表に出ず、白洲にその役を演じさせたことで吉田はその政治生命をどれだけ救われたか計り知れない。白洲がいなかったとしたら、吉田はその数か月後に首相になることはなかったかも知れない>。
 
 
 
 

5
戦後日本は奇跡の復興を遂げる。各国はその秘密の鍵を解こうと、さまざまな方面から”日本株式会社”の分析を行った。そうしたとき、必ずと言っていいほど出てくるのが”通商産業省”の存在である。
 

“通産省は戦前の商工省の後進だ”と考えられている向きがあるが、それは大きな誤解である。この通商産業省という役所は、実に、ひとりの男の執念がつくり上げた”日本復興”の切り札なのである。それが白洲次郎だったということは以外に知られていない。
 

昭和23年12月、次郎は第二次吉田内閣のもとで、商工省の外局である貿易庁長官に抜擢された。マッカーサーが次郎の長官就任を歓迎してると聞いてさすがの彼も驚いた。それにはある事情があった。この時期、輸出の許可をめぐって貿易庁には贈収賄の噂が絶えなかったのだ。
 

「今の日本にとってもっとも重要なことは輸出産業を振興させて外貨を獲得し、その外貨でさらに資源を購入して経済成長にはずみをつけることだ。(略)これからは、貿易行政があって産業行政があるというふうに考え方を変えていかなければ日本という国は立ち行かない」。「占領下で動きの取れない外務省も、軍需省の尻尾を引きずる商工省も、ともに潰して新しく貿易省をつくる」
 
 
 
 

6
日本の国際社会への復帰には近隣諸国を中心に反対もあり、全ての国と講和条約を結ぶ(ソ連を含む全面講和)のは不可能に近かった。ただ一方で、講和に賛成してくれる国とのみ条約を結ぶ(アメリカを軸とする単独講和)というのは、一部の陣営に組することにつながりかねず、戦争を放棄するという理想との間で矛盾が生じる可能性があった。
 

吉田はついに大胆な賭けに出た。昭和25年4月、池田勇人(蔵相)とともに次郎は渡米した。これは後に”池田ミッション”と呼ばれ、その内容は長くベールに包まれていたが、講和を現実のものとして引き寄せた重要な会談であった。
 

池田は陸軍省顧問ドッジを相手に、日本としては早期講和を望んでいること、ソ連がアメリカよりも先に講和を申し出てくる可能性もなきにしもあらずだということ、早期に日本が独立できなければ政情不安が起こる可能性があることを切々と説いた。
 

吉田は早期独立のためならば”米軍基地存続を認めてもいい”という、アメリカを講和に踏み切らせるための切り札を、池田に持たせていた。ソ連の脅威への対処を迫られていた米国にとって、これは願ってもない申し出であった。
 
 
 
 

7
次郎は単独行動をとっていた。(白洲次郎こそ吉田の本音を知る鍵ではないか)そう睨んでいた国務省は、むこうの方からアプローチしてきた。対日講和担当のバターワース国務次官補は次郎を自宅に招き、極めてシリアスな意見交換をしている。
 

「(略)わが国はどうやって日本をソ連から守るかが問題だと考えている。ところが、オーストラリアやフィリピンのように、日本が軍国主義になることを恐れている国もある。わが国としては今回は慎重に動き出したいのだ。あなたの考えを聞かせてくれないか」。
 

「(略)日本は国家として戦争を放棄したのだから、米軍基地を残して戦争に備えるのも憲法上むずかしい。いちばんいい方法は、アメリカが日本占領を終了すると宣言して、軍事以外の内政と外交権を日本政府に完全に返還する一方で、いざという場合の軍事行動の自由を保持するという方法だ」。
 
 
 
 

8
米国政府の本音を言えば、やはり彼らは米軍駐留を継続させたかったのだ。(略)結局、アメリカは吉田の提案に乗り、日本からの依頼に基づいて日米安保条約を結ぶ一方、ソ連など一部の国を除くかたちで講和条約を結ぶことになった。
 

だがもし米国が次郎の案を採用していたとしたら、わが国は米軍基地抜きの独立を実現できたに違いない。それが日本にとって吉とでたか凶とでたかはわからないものの、日本国民が今と違って独立自尊の精神に富んでいたのではないかと想像するのである。
 

後の安保をめぐる議論に関して次郎は次のように述べている。
 

<私が政府であるならば、私は国民に言うだろう。(略)なぜもっと具体的に数字で、というより、自分で防備をやったらいくら税金がふえると国民に説明しないのか。税金がふえて、我々の生活が今よりぐっと苦しくなっても、なお外国の軍隊を国内に駐留させるよりもいいというのが国民の総意なら、安保など解消すべし>
 
 
 

昭和26年8月31、吉田首相以下二十数名を乗せたパンアメリカン機は羽田を経ちホノルル経由でサンフランシスコへと向かった。晴れがましいことの嫌いな次郎は家族の見送りを一切断った。飛行機の中ではTシャツにジーンズというラフな服装。ちなみに次郎は日本で初めてジーンズをはいた男と言われている。