知性の正しい導き方(ジョン・ロック)

『知性の正しい導き方』 ジョン・ロック 訳:下川潔 ちくま学芸文庫
 


 
 
 
 
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なるほど私たちは、心の諸能力を区別し、あたかも意志が行為の主体であるかのように考えて、最高の指揮権を意志に与えます。
 

しかし、実際には、行為主体である人間が、すでに知性の中にもっている何らかの知識や知識らしきものに基づいて、自分自身を決定し、あれこれの随意的行為を行うのです。
 

私が想像するに、大部分の人たちは、自分の知性をなおざりにしているために、それぞれ自分なりに到達しうる地点のはるか手前までしか到達してません。
 

人々は心のこの能力を使用し改善するにあたって多くの過ちを犯し、そのために自分の発展を阻害し、無知と誤謬の中で一生を過ごしています。以下の論述で、私はそれらの過ちのいくつかに注意向け、適切な治療法を示すつもりです。
 
 
 
 

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研究と思索をする人たちの中には、正しく推論し真理を愛し求めながらも、真理の発見においてなんら大きな進歩を示さない種類の人たちがいます。彼らの心の中では、誤謬と真理が不確実な仕方で混ざりあっています。
 

それは、彼らが一種類の人たちとしか会話をせず、一種類の本しか読まず、一種類の考え方にしか耳を傾けようとしないからです。
 

あらゆる学問における最良の書物を調べつくし、哲学と宗教のいくつかの派の最も重要な著者が言っていることを学ぼうとする人は、最も重要で包括的な諸問題に関する人類の見解を知ることが果てしない仕事だとは考えません。
 

しかも遠く離れて分散していた真理の諸部分が相互に光を与えあい、これが本人の判断を助けますから、その人の判断がひどく的外れになることはなく、明晰な頭脳や包括的な知識を持っていることをいつでも証明できることになります。
 
 
 
 

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私たちは、ほとんど何でもできるくらいの能力や力を持って生まれています。少なくとも、ちょっと想像できないようなことを成し遂げてしまう程度の力をもっています。
 

綱渡り師や曲芸師は、どうやって自分の体で、あのように信じがたい、目をみはるような動作をするのでしょうか。このようなすばらしい運動は、練習をしない見物人にできることではなく、彼らがほとんど考えもしないことです。
 

身体と同じことが、心についても言えます。心の現在のありようは、訓練によって決まります。自然の恵みと見なされる卓越した資質ですら、調べてみれば、その大部分が訓練の産物であり、動作の繰り返しによって高みに達することになったことがわかります。
 

人々は、実際には才能を適切に伸ばす機会がないからであるのに、才能がないからだと不平を言っています。
 
 
 
 

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人はよく、自分の意見を基礎づける際に、基礎づけようとする命題よりも確実でもなければ堅固でもない基礎を受け容れてしまいます。ここでいう基礎とは、例えば次のものや、それと類似したものです。
 

私の党の創設者や指導者はよい人たちである、それゆえ彼らの主義主張は真である。それは誤ったセクトの意見である、それゆえそれは偽である。それは長いあいだ世間で受け容れられてきた、それゆえそれは真である。それは新しい、それゆえそれは偽である。
 

人々がより良い、より確実な諸原理を用いないのは、それができないからだと私は考えます。しかし、この無能力は生来の才能の欠如からではなく、慣れと練習の欠如から生じるものです。
 
 
 
 

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事物そのものがあるがままに考察されねばなりませんし、しかもそれがなされれば、事物は、それがどういう仕方で理解されるべきかを私たちに示します。
 

事物を正しく把握するためには、私たちの知性を事物の確固不動の性質やその変更不可能な関係に合わせねばならないのであって、事物を私たち自身があらかじめ抱いている考えに合わせようと努めてはならないからです。
 

推論というものの中に、私は人間理性が行う一般的真理の発見のすべてを含めます。推論だけが知識を構成するものではないにしても、この推論を行うことこそが、自分の知性を改善し読書によって知識を身につけると称する人たちにとっては、本来の務めなのです。
 
 
 
 

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彼らは、不屈の勤勉さで自分の全時間のすべてを本に費やし、寝食を忘れ、読んで、読んで読みまくっているにもかかわらず、肝心な知識の点では何ら大きな進歩をとげません。
 

進歩がないことは彼らの知的能力のせいだと思われるかもしれませんが、実際には、知的能力には何の欠陥もないのです。このような間違いが生じるのは、著者の知識が、読書を通じて読者の知性の中に流れ込むという想定が通常なされるからです。
 

実際、知識は流れ込むのですが、それはただ単に読むことによってではなく、著者が書いていることを読んで理解することによってそうなるのです。私たちは、彼らの推論の中にはいり込み、彼らの証明を検討しなければならないのです。
 
 
 
 

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早馬で一地方を駆け抜けてゆく人は、過ぎ去るつかの間の景色からその地形が大体どうなっているかを理解し、ここに山、そこに平野(略)一方に森林地帯、他方はサバンナという具合に、大まかな説明をすることができるかもしれません。
 

しかし、当然のことながら、彼は土壌、植物、動物、住民に関して、その種類や特性を含めて有益な観察を行うことができません。自然は、通常その財宝や、宝石を岩だらけの地面の下に埋蔵しています。
 

もし問題が困難でその意義が深いところにあるのならば、心は立ち止り、それに全力を傾け、労力と思考と緻密な観想によってその問題に集中し、困難を克服して真理を獲得するまでそこから離れてはいけません。
 
 
 
 

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私たちはあらゆる意見に関して完全に不偏不党性を保持すべきであって、どれか特定の意見が真であることを望んでもいけませんし、それを真であるかのように見せようとしてもいけません。
 

そうだとすれば、検討せずに受け容れた自分の主義主張のうちどれかに疑いをもち始めた人は、その問題に関して、自分をできるだけどっぷりと無知の状態に入れてみるべきだということになります。
 

以前の自分の見解と他の人たちの意見をすべて棄てて、完全に中立の立場に立って、問題をその根源において検討すべきであって、どちら側につきたいと思ったり、検討していない自分の意見や他人の意見を顧慮してはいけません。
 
 
 
 

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悪い視界の中で遠くから見てとても曖昧に見える事物には、私たちは静かに規則的な足取りで接近しなくてはなりません。しかも、それらの事物の中で、最もはっきりと目に見え、容易で目立つものを最初に考察すべきです。
 

事物をいくつかの明確な部分に分割し、それら諸部分の一つ一つについて知られるべきすべての事柄を、然るべき順序で平明で単純な問いにして示すことです。
 

そうすれば、以前には曖昧で混沌として、私たちの脆弱な能力では無理だと思われた事柄は、その姿をはっきりと知性の前にさらけ出し、心は、かつて畏怖の念を抱き、全く神秘的なものとして距離を置いていたその対象に向かって進んで行きます。