『私のウォルマート商法』 サム・ウォルトン 2002年11月 講談社
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私は学生自治会の会長になろうと思った。すぐに気づいたのだが、キャンパスでリーダーシップをとるコツは、きわめて簡単なことだった。道で出会う人々すべてに、こちらから声をかければいいのである。やがて私は、大学中でもっとも知人の多い学生になった。
高校時代から続けていた新聞配達の仕事を、大学入学後は何人かの助手を雇って、さらに配達部数を増やしたところ、これが結構なビジネスになった。私の年収は四千ドルから五千ドルだったが、これは大恐慌の末期にしてはかなり高額である。
「私はいつも両親に、活力と情熱にあふれていて、成功を望んでいるような人と結婚するわ、といっていました。たしかに探していた人を見つけたわ。でも、ちょっと上を狙いすぎたかな、と時々苦笑いしているの(ヘレン・ウォルトン)」。
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1962年は、四つの会社がディスカウントストアのチェーン展開を始めた記念すべき年である。まず800店のチェーンを持つSSクレスゲが、ガーデンシティにKマートを出した。次に小売業界の最古参ウールワースがウルコをスタートさせた。
三番目はミアポリスの百貨店チェーンのデイトン・ハドソンが一号店を開店した。そして最後に、アーカンソン州のロジャースで、一介の小売業者がウォルマートを開いたのだ。
片田舎の小さな町で資金もなく、融資も受けられずに始めたために、自から学び行動しなければならなかった。この時期、私たちは最大の教訓を学んでいた。アメリカの小さな町には誰も思いもよらないほど多くのビジネスチャンスが転がっている、ということである。
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当時は天井からぶら下げれば何でも売れるといっていた。特定の商品を大量に仕入れ、人目を引くように演出すると、普段の売り場に置いてはあまり売れないものが飛ぶように売れた。わが社の独特のやり方で、他者にとってわが社が手強い競争相手となった要因の一つである。
フィル・グリーンはわが社の歴史上、もっとも有名な特売をやった。彼は通常は3ドル99セントの洗剤に1ドル99セントの値をつけた。仕入れた量を知った時、私たちはついにフィルの頭がおかしくなったと思った。天井まで届く洗剤のピラミッドが30メートルも並んだ。奥行きは3.6メートル、人一人がようやく通れるくらいだった。
小さな町で顧客と良い関係を築き、ウォルマートといえばお客はすぐに低価格と満足の保証を思い浮かべるようになった。ウォルマートがどこよりも安く、万一、商品が気に入らない場合はいつでも返品できる、ということが人々の間に定着した。
他の店へ行って、競争相手を視察せよとサムは何度もいった。「あらゆる競争相手を研究しろ。欠点を探すな。長所を探せ」一つでも何かを得たら視察店に入る前よりそれだけ進歩したのだ。他人の間違いに興味はない。正しいことに興味があるのだ。
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「1967年のある日、秘書が組合に入りたいという人が来ているというので10分だけなら、と答えた。するとやせて背が低く日焼けした男がテニスラケットを抱えて入って来てアーカンソーから来たサム・ウォルトンですと名乗った、面くらったね。
彼はいつものくせで、相手の目を見て、頭をかしげ、額にややしわを寄せて、私からどんどん情報を引き出した。ほとんどメモも取らずに、次々と質問して、二時間半も粘ったよ。
私は自分の知識をすべて吐き出したような気がしたもんだ。彼が何者かは知らないが、いずれ彼の噂を聞くことになるだろう、と思ったね」。カート・バーナード(小売業コンサルタント)
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「現在の基準からすると私たちのシステムは原始的だったかもしれないが、1960年台にはきわめて革新的だった。サムはそのシステムの研究に多くの時間をさき、何であれ最善のものを取りあげ自分のニーズに合わせて利用する、その名人だったね。
あのころ彼に提供したのは、実践的ロジスティクスだ。たとえば、世界中に軍隊を派遣しても、弾薬や食料を供給できなければ、無意味だ。サムはそのことを理解していたよ。
商品回転率が全てなんだ。在庫商品が早く回転すればするほど、必要な資本は少なくてすむからね。そのために、いつどんな商品を仕入れるか、売価はいくらにするか、いくら値引きするかを的確に判断し実行しなければならない。つまりロジスティックスさ。
肝心なことは、サムがあの会議場に現れたのがじつにいいタイミングだった。サムはコンピューター時代を10年は先取りしていた。これは断言するが、もしコンピューターがなければサム・ウォルトンは今のようなチェーンストア帝国は築けなかった」。エイブ・マークス(全米大量販売業者協会初代会長)
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わが社の戦略とは、他店が素通りするような小さな町に、適性規模のディスカウントストアを出店することである。そのころ、同業者のKマートは人口5万人以下、ギブソンズでさえ人口1万2千人以下の町には出店しなかった。
私たちは、自分たちの公式が人口五千人以下の町でもうまくいくとわかっていた。だから、進出できる町は無数にあった。人々はつねにウォルマートの成功をこう一言で片づけてきた。「ああ、誰も進出したがらないような小さな町の真空マーケットに進出したのさ」。
わが社の手法とは、本拠地を中心に手の届く範囲に出店し、飽和状態になるまでひとつの商圏を寡占していく、というものである。大手が大都市のメトロポリタンエリアから他のメトロポリタンエリアにジャンプするその隙間にわが社のビック・チャンスがあった。
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私の経営者としての仕事の進め方は、私の能力によって決まった。私は自分の得意とすることをやり、弱い面はほかの人々に補ってもらったのだ。
本部における日常業務は、初期のころはフェロルド・アレンド、ロン・メイヤー。後にジャック・シューメーカー。最後にデビット・グラスとドン・ソーダクィストに責任を持たせた。私の役割は、優秀な人材を見つけだし、彼らに最大限の権限と責任を与えることだった。
サムは部下をやる気にさせる指導者として有名だが、実際、これまで得てきた以上の賞賛を受けるに値するだろう。同時に自分が発奮させた部下に特別に注目する点で優れていた。彼の経営方法は、すべてに目を配るマネジメントといえると思う。
私が見落としていた真理とは、売価を下げれば下げるほど儲かるという、ディスカウンティングと同じ原理である。つまり、給料であれ、ボーナスであれ、割引株であれ、授業員と利益を分かち合えば合うほど、自然に会社に利益がもたらされるという原理である。
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小売店の店主が自分の仕事をきちんとしていたのなら、ディスカウントストアが進出してきた時点で、自分の店の品揃え、広告、販促等を見直していただろう。練り歯磨きの値段でウォルマートと張り合っても意味がない。
わが社が取り扱う商品は八万品目を超えるが、これらの商品の85%を自社の物流センターから直接補充している。競争相手の自社物流センターからの補充率は50~65%に過ぎない。発注してから納品に掛る日数は他社が五日以上であるのに対し、わが社は平均二日である。
コスト削減だけに限っても、投資は十分採算が取れている。というのも、わが社では各店舗への出荷コストは3%以下であるのに対し、競争相手は一般に4.5~5%かかっているからだ。仮に同じ商品を同じ売価で売ったとすれば我が社は他者より余分に利益がでる計算になる。
「どうか私に誓ってほしい。お客が10フィート(約3メートル)以内にやってきたら、お客の目を見て挨拶し『何かお手伝いしましょうか』と尋ねると約束してほしい。
あなたがたの中には、内気な性格の人や、お客に干渉したくないと思う人もいるだろう。だが、これを実行したら、あなたはやがてリーダーになれる。
人格が形成され、より外交的になり、やがては、店長やディストリクト・マネージャー、あるいはあなたが目標とするどんな職業もこなせるだろう。あなたにきっと奇跡がおこる」。サム・ウォルトン