『職業としての政治』 マックス・ヴェーバー 訳/脇圭平 1980年3月 株式会社岩波書店
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われわれにとって政治とは、国家相互の間であれ、あるいは国家の枠の中で、つまり、国家に含まれた人間集団相互の間でおこなわれる場合であれ、要するに権力の分け前にあずかり、権力の配分関係に影響を及ぼそうとする努力である、といってよいであろう。
われわれがある問題について、これは「政治的な」問題だといったり、ある閣僚や官僚を「政治的な」官吏と読んだり、この決定には「政治的な」色がついているなどという場合、そこではつねに次の点が考えられる。
つまり、その問題にどう答えるかの決め手となり、あるいはその決定を制約し、当該公務員の活動範囲を制約するものが、いずれも権力の配分・維持・変動に対する利害関心だということである。
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国家も、歴史的にそれに先行する政治団体も正当な(正当とみなされている、という意味だが)暴力行為という手段に支えられた、人間の人間に対する支配関係である。
まず、支配の正当性の根拠の問題から始めると、これは原則として三つある。第一は「永遠の過去」がもっている権威で、これは、ある習俗がはるか遠い昔から通用しており(略)、神格化された場合である。古い型の家父長や家産領主のおこなった「伝統的支配」がそれである。
第二は、ある個人に備わった非日常的な天与の資質(カリスマ)が持っている権威で、その個人の啓示や英雄的行為その他の指導的資質に対する、まったく人格的な帰依と信頼に基づく支配、つまり「カリスマ的支配」である。
最後に合法的支配。これは制定法規の妥当性に対する信念と、合理的につくられた規則に依拠した客観的な「権限」に基づいた支配で、逆にそこでの服従は法規の命ずる義務の履行という形でおこなわれる。「国家公務員」や、類似した権力の担い手たちのおこなう支配はすべてここに入る。
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どんな支配機構も、継続的な行政をおこなおうとすれば、次の二つの条件が必要である。一つはそこでの人々の行為が、おのれの権力の正当性を主張する支配者に対して、あらかじめ服従するように方向づけられていること。
第二に、支配者はいざという時には物理的暴力を行使しなければならないが、これを実行するために必要な物財が、上に述べた服従を通して、支配者に掌握されていること。ようするに人的な行政スタッフと物的な行政手段の二つが必要である。
行政スタッフは、政治的支配機構が存在しているという事実を、外に向かって表示するものである。もちろん彼らも、正当性の観念だけで権力者への服従に釘づけされているのではなく、物質的な報酬と社会的名誉という、個人的な関心をそそる二つの手段が服従の動機となっている。
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官吏にとっては、自分の上級官庁が、自分には間違っていると思われる命令に固執する場合、それを、命令者の責任において誠実かつ正確に、あたかもそれが自身の信念に合致しているかのように、執行できることが名誉である。このような意味における倫理的規律と自己否定がなければ、全機構が崩壊してしまうだろう。
それに反して、政治指導者、したがって国政指導者の名誉は、自分の行為の責任を自分一人で負うところにあり、この責任を拒否したり転嫁したりすることはできないし、また許されない。
官吏として倫理的に極めて優れた人間は政治家に向かない人間、とくに政治的な意味で無責任な人間であり、この政治的無責任という意味では、道徳的に劣った政治家である。こうした人間が、指導的地位についていつまでも後を絶たないという状態、これが官僚政治と呼ばれているものである。
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一体どんな資質があれば、彼はこの権力にふさわしい人間になれるのか。ここにいたってわれわれは倫理的問題の領域に踏む入れることになる。どんな人間であれば、歴史の歯車に手を掛ける資格があるのかという問題は、たしかに倫理的問題の領域に属している。
政治家にとっては、情熱、責任感、判断力の三つの資質が特に重要であるといえよう。情熱はそれが「仕事」への奉仕として、責任感と結びつき、この仕事に対する責任性が行為の決定的な基準となった時に、はじめて政治家を作り出す。
そしてそのためには判断力が必要である。すなわち精神を集中して冷静さを失わず、現実をあるがままに受け止める能力、つまり事物と人間に対して距離を置いて見ることが必要である。「距離を失ってしまうこと」はどんな政治家にとっても、それだけで大罪である。
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政治家は、自分の内部に巣くう、ごくありふれた、あまりにも人間的な敵を不断に克服していかなければならない。この場合の敵とはごく卑俗な虚栄心のことで、これこそ一切の没主観的な献身と(自分に対する)距離、にとって不倶戴天の敵である。
政治の領域における大罪は結局のところ、仕事の本筋に即しない態度と、もう一つ、無責任な態度の二種類にしぼられる。虚栄心とは、自分をできるだけ人目に立つように押し出したいという欲望のことで、これが政治家を最も強く誘惑して、二つ大罪の一方または両方を犯させる。
デマゴーグ(煽動的指導者)の態度は本筋に即していないから、本物の権力の代わりに権力の派手な外観を求め、またその態度が無責任だから、内容的な目的をなに一つ持たず、ただ権力のために権力を享受することになりやすい。
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山上の垂訓とは、福音の絶対倫理のことであるが、福音の掟は無条件で曖昧さを許さない。汝のもてるものを、そっくりそのまま与えよ、である。
それに対して政治家は言うであろう。福音の掟は、それが万人のよくなしうるところでない以上、社会的には無意味な要求である。だから、課税、特別利得税、没収、ようするに万人に対する強制と秩序が必要なのだ、と。
人は万事について、少なくとも志の上では、聖人でなければならぬ。キリストのごとく、使徒のごとく、聖フランチェスコらのごとく生きねばならぬ。これが掟の意味である。これを貫き得たときにこの倫理は意味あるものとなり、品位の表現となる。
そうでないときは、逆である。なぜなら、無差別的な愛の倫理を貫いていけば、悪しきものにも力もて抵抗(てむか)うな、となるが、政治家にはこれと逆に、悪しきものには力もて抵抗え、しからずんば汝は悪の支配の責めを負うにいたらん、という命題が妥当するからだ。
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政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。もしこの世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なことの達成も覚束(おぼつか)ないというのは、まったく正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。
しかし、これをなしうる人は指導者でなければならない。いや指導者であるだけでなく、英雄でなければならない。そして指導者や英雄でない場合でも、人はどんな希望の挫折にもめげない堅い意志でいますぐ武装する必要がある。そうでないと、いま、可能なことの貫徹もできないであろう。
自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が、どんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな事態に対しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。