『青木功 プレッシャーを楽しんで』 青木功 日本経済新聞出版 2010年11月
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我孫子ゴルフクラブで、ハウスキャディーになったころ、第七艦隊の人たちが横浜に上がると、土曜日の午前中に大挙してやってきた。今、自分が持っているような重いゴルフバックを3個、一人でかついだ。
「オーイ、キャディ、ボール拭けー」とボールが飛んでくる。クルクルと拭いて投げ返す。すると今度は「何番のクラブを寄こせ」。この人はこれだとクラブを選んでぶん投げると、相手から違うクラブがヒューっと飛んでくる。一つバッグを置き、二つバッグを背負って一方の手でピン持ちもやった。本当に体力があった。
我孫子では、アプローチはめちゃくちゃうまくなった。ゴルフはミスのゲームであるから、思った通りにいかないのが当たり前。意図せぬことが起きる。よく失敗することを丹念に反復するのが、上達の近道だろう。自分の一番安全で確実な攻めを心がけること。打ち損じない安心感がまず先行する。
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田中角栄さんのキャディをやったことがある。角さん流で「ゴルフの本を3貫目ほど買ってこい」と言いつけ、それを3カ月で読破、それから来る日も来る日も赤坂の練習場で4、5百発も打ったという。せっかくだから角さんには100を切るゴルフをしてもらおうと思った。
「このアプローチは転がしてください」とか言うと、かなりうまくいく。失敗はあっても私のアドバイスで攻め方がわかってくると「君はけっこうゴルフがうまそうだな」という。プロゴルファー青木功に角さんは無関心で、研修生かキャディさんにしか見えていなかったようだ。
「君はわしがバンカーが苦手なのを分かっているようだな」「ええ。わかります」というと、あのだみ声で「じゃあこれからはパットのラインも強弱も頼むぞ」と信頼を寄せてくる。「わかりました」ということで、最初の9ホールは47で回り、「今までのベストスコアだよ」と上機嫌だ。
角さんは、なんのタレベエかも知れない男のアドバイスに逆らわずにプレーしてくれた。さすがに後半は初の100切りを意識してか、苦戦したがなんとか49で回り、「おかげでついに100を切れたよ」とグリーン上で握手を求められた。こちらもわがことのように嬉しく達成感に浸った。
ところで、このあと小佐野賢治さんに角さんが語った言葉を聞いて、私はグリーンサイドでひっくり返った。「賢ちゃん、この男、ゴルフが上手いぞ。見込みがあるから面倒みてやれや、わしがプロになることを保証する」。
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70年代初め、銀ちゃん(中部銀次郎)と再開し、それから夜の街を遊び始めた。日曜日、東京に試合から帰ってくると銀ちゃんがどこにいるか分かっていて、先回りすることもあった。3件くらい飲み歩いた。酒量はお互いに半端ではなく、二人は「アル中」コンビと言われた。
73年6月の札幌とうきゅうオープンで「銀ちゃん、50センチのパットを外しても勝ったよ」と報告すると「お疲れさん」の言葉はなく「なんだ、おまえ。普通に打ったって入るだろう。なんであれ入れないんだよ」という。この日はそれで終わらなかった。
「いいか、あそこで入れて2ストローク差にして終われば、相手を突き放せる。そうするとお前のことを嫌がるようになる、一緒に回ったらまたやられるんじゃないかと。そうして勝てば相手は負け犬になるんだ。周りもそう思うようになる。それを次に試合のステップにしなさい」。
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銀ちゃんのおかげで「ぶっちぎりの青木」から執念と「忍耐」を覚えた青木に変貌した。飛躍的にゴルフの内容が充実してきた。大量のアンダーパーでプレーし、ぶっちぎりでいい気になっていたころと、その後の成績が安定した時期と比べて、どちらがいいゴルフをしていたかを考えると、いうまでもなく後者の方だ。
銀ちゃんの教えは今も胸に刻んでいる。奥道後GCで二人きりで回った94年のことが思い出される。私が初めて出場した日本シニアオープン(奈良国際GC)で優勝した翌週だった。米国のシニアツアーでは2週連続優勝を飾り、ランキング13位となっていた。
進歩のあとを銀ちゃんに認めてもらいたくて「おれも少しはゴルフがうまくなったろう」と話しかけた。「テークバックに入る間合いがすごくスムーズになって、これじゃ曲がらないね、すばらしいよ」と褒められた。銀ちゃんに、ずばり言い当てられると、うれしいというよりありがたいという気持ちになる。
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勝った翌週、火曜日の夜とか見栄をはってゴルフ記者に「飯食いに来い」と声をかける。たいてい焼き肉屋でお金もかかったが、なんだかんだ言ってもマスコミも同じ人間だとわかる。私が会見や、ふだん記者に向って「ばかやろう」と言っても、そこは「さっきはごめんな」という場所だった。
ゴルフ場の記者会見で余計な質問をする記者がいる。「いまゴルフ場でする話じゃないだろう、ばか」と言ったりする。会見が終わってその記者をつかまえて呼びつける。「このばか、場所がちがうだろう」と今度は小さな声で言いながら「きょう6時から飯くってるから来いよ」と誘った。
自分でつっぱっているというのじゃないが、いい時というのは、人のことを無視しているわけじゃないけど、先にいかなくちゃいけないから、気も何もかも張っていたのだと思う。
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プロになってから、1勝するまで7年かかった。68年に初めて日本オープンに出場し、ようやく日本オープンを勝ったのが16度目の挑戦の83年だ。その試行錯誤の期間がよかったのかもしれない。熟成の時間の中で独自のゴルフを作り上げ、勝つことの喜びを知った。
83年日本オープン4日目。17番のパー3で私があわやホールインワンという50センチのバーディで自滅気味のゲールと並んだ。プレーオフ2ホール目の18番でグリーン右のバンカーに入れたゲールに対して、クリークで理想的なフェードを打ち4メートルにつけて、悲願の日本オープン優勝を手にした。
その時、脳裏に浮かんだのは、若いころに死に物狂いでケガの多いフックボールからフェードボールに変えたことが生きたという思いだった。日本オープンの大きなタイトルを幾度も逃したその大きな代償として、フックからスライス系のボールを操れるようになった。
あれがなかったら、今もこうしてゴルフをやっていられなかったかもしれない。「長かったなあ」。16度目の挑戦でやっと国内最高の日本オープンのタイトルをつかんだ。その長い道のりを思うと涙がこぼれた。
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案の定(メタルドライバーが出たとき青木は尾崎の復活を予想していた)、尾崎将司は1980年代後半、彗星のことく復活、プロゴルフ界を席巻した。
88年東京ゴルフ倶楽部で行われた日本オープンで完全復活(6勝して賞金王)したのだ。あの勝利によってジャンボは、以前よりはるかに大きなスケールのゴルファーになった。才能あふれる人間が練習も一番こなしたのである。
(ジャンボに物申す)
ゴルフ場の支配人はゴルフ場の社長だと思っている。革靴とジャケットを着てまず支配人に挨拶するのが常識。ゴルフ場は自分たちの仕事場だ。最初はやったかもしれないが、支配人に今週お世話になりますという姿勢を、ジャンボが率先して見せてほしかった。いまさらだが。
米国のマスターズトーナメントに何度も一緒に行った。主催者から車を借りられるが、ジャンボはその車の中でスパイクを履き替えて練習場に行き、そのままコースに行って、クラブハウスに一回も顔を出さない。お山の大将でもいいから、ごく当たり前のことをやって欲しかった。
今のところ、シニアの世界で再び「AON」として戦えないのがちょっと寂しい。プライドの高い男だからまだ自分は若い者に負けないと思っているのかもしれない。1回でも米シニアツアーに出ていたら勝つチャンスは十分にあったし、彼の人生が違うものになっていたのではと惜しむ。
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試合の初日、ティーを刺す。コースに向ってゴルフの神様に「また一日、ゴルフができます。ありがとうございます」と心の中で思う。私は恵まれた男だ、ゴルフに巡り合うことができたのだから。ほんとうに感謝しなくては、私とゴルフを結び付けてくれた神様に。
ゴルフ場にいてボールを持たしてくれたら、何も食べなくていい。グリーンの上で死んでもいいと思う。でもそれは神聖なグリーンを汚してしまう。グリーンの外でコロンといくのもいい。もう、好きで好きでたまらない。若い子が100回言っても、それ以上に好きだと言うだろう。
センセーショナルに登場した石川遼君とは50歳も違うのに同じ土俵に立てる。こんなのを作った人になんてお礼を言ったらいいか分からない。野球なら監督も引退の年齢だ。いつゴルフができなくなるかわからない。そのときに悔いを残さないように今を大事にしたい。そういう意味で生涯現役なのだ。
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私のスイングの要は、体を動かさないことである。正確に言えば、回転運動の芯になる体の軸を動かさないことだ。「ベタ足」にして大地をしっかりつかんで軸を支える。腕や肩に柔軟性を持たせて軸の力を生かす。こうして正確に鋭くボールを打ちぬくことが可能になる。
軸足の左ヒザを動かさないようにすることも重要だ。左ひざが逃げたり伸びたりしないように歯を食いしばって我慢して完全に振り切るようにすれば、それだけ体のねじれが強くなり、ヘッドスピードも増してインパクトの強い威力のあるボールが打てることになる。
これまで早く足が上がり、スエーしていたものがその何分の一かが直るだけで、大きな効果を生むはずだ。右足がインパクト前にあがると上体が左に流れ、上体が開いた形で打つから、ダウンスイングで嫌がって左手を引く動作を誘引する。体が早く開いてスライスになる確率が高くなる。
ベタ足で振れば体の正面でボールを叩けるフィーリングも身に着く。クラブヘッドが早く回り、そんなに曲がらないで、力もそれほど必要としないで飛ぶという効果がある。これが青木功のゴルフの要諦である。