『蜃気楼の中へ』 西部邁 1979年06月 日本評論社
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日和見といえば、僕は今までずっと我彼の力関係について、つまり僕の心理の中での自分とアメリカの力関係において、卑怯未練に、あれこれ細かな計算をしていたのかもしれません。そしてその力関係の結節点にはレイシャリズム(人種差別)の問題があったように思います。
アメリカに来る直前にある知人に会い、彼が「俺は毛唐なんぞは人間だとは思わない」というのを聞いたときにも、太古からずうっと生き続けている人種主義という生き物の唸り声を聞いたような気がしたものです。
僕が今(1977年 38歳)ようやくアメリカにくることが「できた」のは、まずもってアメリカ的の経済学から大きく離れたことによってアメリカに対する余裕あるいはノンシャランス(無頓着)めいたものが僕のうちに生じたことがあります。
さらには、前半生をすぎて少し図太くなり、レイシャリズムにかんするあれやこれやの断片的印象からいちいち痛みを感じないくらいに感受性が鈍くなったことも関係しているでしょう。
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まず「私は何とか大学からやってきた何とかを研究している何とかという助教授で、貴殿のことを何とかさまからご紹介され、お会いしてお話しできればと存じます」と電話をかけ、何日何時のアポイントを取ります。
そして30分かそこら、型通りというか、相手に申し訳ないような話しをして、「お会いできてうれしかったです、またお会いしましょう」と言ってはみるものの、「こんな初対面の場しかつくれなかったのだから、もう会うこともないのだろうなあ」と心で呟いたりするのです。
挙句、「こうした退屈になれるのも仕事のうちさ」と諦めのうちに得心するわけです。自慢じゃありませんが、ぼくも一通りこうした仕事をやってきたのです。
でもこの種の無彩色の風景が出会いのあやなされる場に必要な「地」とすれば、色どりを持った「図」の方もなければなりません。外国の地に家族で居を構えていると、半年の間に思いもかけないつき合いがいろいろな形で進展し、さまざまな色合いが自ずと現れてくるものです。
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今日はかの有名ななんとか先生の講演がある、というような報せがあっても、その先生の人物に特殊な人生観的関心でもない限りは、そのうち御本でお目にかかりましょうと思ってしまう癖が僕にはあるので、なおさらです。
つまり、秀れた人の講演をいち早く聞くのが決定的で、それが論文になったときはすでに時期遅れであり、ましてや本に収録されたときにはもう黴が生えているのだ、というふうには思えません。情報の新しさの問題にたいした価値をおかなくてよいことをやりたいのです。
本という人智の固形分泌物と一個の生活者として自分がじかに接する社会の裏表、何もこの二つだけに知的営みの源泉を限る必要はないのだとわかっているのに、独学の癖は持病のようにとり憑りついて離れません。
僕としては、本たちの中に神を求められるのではないかと思い、また巷の人びとのうちに信仰の息吹を感じられるのではないかと予想して、心地悪さから何とか逃れるべく努力してみるわけです。
ところが本の数ときたらこれがべらぼうなもので、この中からこれぞ神というものを見つけるのは容易ではありません。そして巷の人びとの数はもっとべらぼうです。(略)僕の選んだ方法は、少なくとも手っ取り早く学者になるためのものとしては、まったく非効率のようではあります。
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文化の多様性を知るとは、単に諸々の文化の諸々の差異を知るということにつきないはずです。思考力によって差異の深みへと降りていくならば、そこに同一性の視界が開けてくると考えておくのでなければ、差異の議論はあっさり差別のイデオロギーに転化するか、物知り博士の知識欲を満たすものにすぎなくなる。
いま、日本という山とアメリカという山は同一の山系に譲り合って聳えている二つの山なのだと、僕はイラストしてみたいのです。表層を切ってみれば、両者は分離しているとみえるものの、深層へ下っていけば、両者の重なり合う領域は逐次増大していきます。
そしてこの山系の構造こそが、日本とアメリカにとって共通な、普遍的にして基礎的な文化の説明原理を提供するのです。(略)僕のいう相互不信とは、相手の山が大きくなるにつれてつのる脅威のために、それを遠くに追いやろうとする心理の傾きのことです。
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男の子に「ラフであれタフであれ」と仕付ける習慣がいつから始まったのか知りませんが、ここにはそれが素朴な形でまだ残っているようです。わが子が乱暴に振る舞うのを見やり行末頼もしいとにんまりするわけです。
まず日本からきた少年たちが驚き怒りかつ嘆くのは、アメリカの少年たちが「ゲームのルール」守らないということです。
たとえば野球をとってみると、三振して次にすんなり交代してくれる少年は稀で、振ったのは2回いや3回だとひと悶着あるのが普通です。ボールの方が早く1塁ベースに着いたからといってベンチに戻るのはどうやら空け(うつけ)ということらしく、ベースの上でひとしきり頑張るのが普通です。
考えてみれば、虎視眈々とルール破りのチャンスを窺がい、さらにできれば都合よくルールを変えようと試みるのが、本当に「利得のために競い合う」ということでしょう。たとえば、経済学の教える一定のルールの下での競争などというのは「ラフでありタフである」ものたちにとっては「ヤワ」に過ぎるというものです。
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ある日、娘が演劇クラブの女の子から妙な游び歌でからかわれたように思うが、その歌の意味がよく分からないので教えてほしいといいます。
身振りの部分を()に入れて説明しますと、「Chinese(細い上がり目)Japanese(細い下がり目)those knees(腰をかがめて両膝をたたく)look at these(両胸のところを引張る)」というものです。
「上がり目と下がり目」は肉体的特徴を意味することは自明ですが「両膝をたたく」のは背が低いといことと他人にぺこぺこするという文化的特徴も意味されているように思われます。「両乳を引張る」のは中国人や日本人の女性のブレストが小さいということではないでしょうか。
私は演劇クラブの先生に電話して「この歌は東洋人の多いカリフォルニアには古くからある歌と推測される。歌の意味は人種的偏見にまつわるものだろう。しかし私の断乎たる教育方針は自分の子供に人種差別の意識を持たせないのみならず、他の子供から差別を受けたときにそれを甘受させもしない」といったようなことを話しました。
子供の中に芽生えてくる毒草を念入りに刈取るという仕事は、実は、自分の中に残存している毒草にも目を瞑らないという構えがあってはじめてできることで、なかなか大変なことなのです。
その仕事を「子供だから」という理屈でスキップしてしまうことは、子供を甘やかすだけでなく自分自身を甘やかされた子供の位置に留める所業に近いと思うのです。もっといえば、子供があからさまに呈示してみせてくれる偏見は大人が隠し持つ偏見とちゃんと底しているとみるべきです。
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アメリカ語を喋ることに淫している非アメリア人をみるたび、そして非アメリカ人に向ってつまらぬことを大層に述立てるアメリカ人に接するたび、僕はアメリカ語とアメリカ・ドルの相同性に思い至ります。
アメリカは世界通貨としてのドルを勝手に刷って世界にばらまくのと同じように、世界共通語としてのアメリカ語を世界に押し付けます。そしてその過程で、ドルの価値が下落するのと同じようにアメリカ語が空洞化します。
ドルを媒介として物の世界が規格化していくのと同じように、アメリカ語を媒介として言葉の世界がその豊かな変異を失っていきます。
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人智を注いだ灌漑によって岩肌の上に浅くはり付いた土壌が農地と化し、そしてレッド・ウッドやユーカリプタスが岩山の水分を吸い取るべく獰猛に根を伸ばしていますが、それらを砂漠の一部とみなせば、カリフォルニアはたくさんのオアシス都市の浮かぶ砂漠なのです。
カリフォルニアは、ひょっとして人類最後の漂着地なのかもしれません。そして、ラスト・リゾートとしての特権と義務に基づいて、社会的価値の尺度も保蔵も表現も物のようにかく流通させてしまう酷薄な社会をとことん見せつけているのです。
ただ、僕は「イシ」の顰(ひそ)みにならいたいのです。
カリフォルニア・インディアン「ヤナ族」最後の生き残りで、文化人類学者クローヴァに面倒を見られて彼の研究対象となり、今はUCバークレイのクローヴァ・ホールの陳列館に姿をとどめており、そして最後に「クローヴァは子供だった」といったという「Ishi」の顰みにならいたいのです。
カリフォルニアの一部しか知らないで何を分かったようなことを、という人が必ずいることでしょう。アメリカに長く滞在する日本人たちからも「バークレイに腰を落着けていてアメリカなんて言わないでほしい、ここは本当に特殊なんですから」とよくいわれております。
僕の言分はごく素朴なもので、ひとは所詮この世の一部しか見れないのだから一部から全体を推しはかるほかなく、また逆に一部の中に全体が折り畳まれていると思わなければ、その一部をひとつのまとまったものとして見ることすらできないだろう、というものです。
バークレイの特殊性をみつめていけばアメリカ一般に通じるだろう、というわけです。さらに言えば、日本にいてアメリカ的なものを評価する際に僕なりの枠組みがあったわけで、こちらにきてからその枠組を修正する必要を感じたことはまずないといっていいようです。
従って、この特異なカリフォルニア文明こそアメリカのエッセンスを体現したものであるいにちがいないと、密かに見当をつけてすらいるのです。要するに僕は、「僕にとってのアメリカ」について語っているだけで、それ以上でも以下でもないのです。
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僕の思いつく仮説は、「(略)アメリカはヨーロッパの子供である、ただし彼らはすでに成人しているのだから “大人子供” マンチャイルド と呼ぶのが適切である」というものです。伝統の父母から離れたことによって、彼らは永遠とは言わぬまでも長期にわたって、子供でありつづけるわけです。
彼らの主張する自由や権利、彼らの示す好奇心や熱中、彼らの振り回す勝手な口実とそれを信じてしまう軽信性、彼がらが時折に示す猛烈な結束力と攻撃性、ゲーム好きではあるがルールを自分に都合よいように解釈するような自己中心性、彼らが陥るイノセンス(無知と無邪気)、イギリス人やフランス人を前にしたときの涙ぐましいまでの謙遜、というふうに列挙していくと僕は自分の仮説を信じたくなるのです。
伝統を断たれた者たちが大陸で生抜くという課題のすごさは、今では、とりわけマイノリティの背にのしかかっているといえましょう。
彼らの精神は、いってみればハードボイルドをつきぬけていき、つまるところ「タフであっても生きられぬ、優しくあっても生きる価値がない」というニヒリズムの中に「生きる」こと以上のものへの志向が胚胎します。つまり、人間的質なるものの死と平然と戯れはじめるのです。
その思いが今度は、マジョリティを照射して、この大陸全体が荒涼として色合いに染められつつある、と僕には映るのです。僕が当地に1年余り滞在して得た最大のものは、居間の壁に張ってある大きなアメリカ合衆国も地図がこのように変色していく感覚であるといえそうです。