『対話する人間』 河合隼雄 1992年06月 潮出版社 (2001年2月 講談社文庫)
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母性原理は、ひとくちでいえば「包含する」ことを主な機能とする。子どもを絶対的に包みこみ育てる面がプラス、自立を絶対的にさまたげる面がマイナスである。
一方、父性の機能は「切断する」特性を持っている。すなわち、主体と客体、善と悪などを分類し、子どもの能力や個性に応じて類別する。平易にいえば、大人のルール、社会のルールを教えるのである。
心理的には母性優位だが、家族の中では父性優位、心理的な母性制を社会的な家父長制でバランスをとったのである、だから、昔の父親は「地震、カミナリ」に並んで怖かった。
しかし、この怖さは欧米の父親の怖さとは質的に違っていた。欧米の父親は子どもの個性を育てるために厳しかったが、日本の父親は個性など関係なく、コミュニティの一員として、みんなと同じ歩調を合わせて生きるように育てるために「厳しかった」のだ。
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勉強してほしいと願っても、子どもはなかなか親の思い通りにならない。あるいは、親の思い通りに動く「よい子」だと思って喜んでいたら、高校生くらいになるといままで溜めこんでいたものを一挙に放出するように、急に親に対して暴力をふるうときもある。
そうかといって、親は子どもを投げ出すわけにはいかない。親子という不思議な絆はそれほど簡単に切れるものではない。しかし、考えてみると、そのような単純に割り切れぬ感情をぶつけあって生きていけるのが家族の特徴ではなかろうか。
(家族関係は)いうならば自分の欠点も露呈されるのだから、その関係がむずかしくなるのも当然だ。そこでお互いが理解しあうために対話が必要といわれる。しかし、その場合、家族の対話がどれほど困難なことであるか、という認識が少なすぎるのではないだろうか。真の対話は、相手の欠点にふれたり、自分の弱点を露呈することにどうしてもつながってくるところがあり、苦痛を伴うものなのだ。
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御巣鷹山の日航機墜落事件の際に、家族に遺書を書いた人たちがあった。その中のある父親からの遺書を見て、その息子は父親の最後のひとつひとつの言葉が身にしみるほどに感じたという。父親がこんな気持ちであったことをはじめて知ったのだ。
このことは、父と息子の家族間の対話がどれほどむずかしいか、ということをよく示している。父の真の気持ちは、死を前にしてはじめて子に伝えられたのだ。(略)それは、日常の生活の中で「決死の覚悟」で家族が話し合うことなど、なかなか起こらないからだ。
決死の覚悟、というのが大げさにすぎるといわれるなら、せめて「死を念頭に置いて」くらいにいいかえてみよう。とてもしんどいことだと思われるだろうが、しんどいことも必要とあらば、ともにやりぬこうというところに家族の存在意義があると思われる。
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いまは、民主主義のためにおかしくなったが、戦前は父親が強くてよかったなどという人があります。しかし、私はそのようには思いません。だいいち、アメリカもヨーロッパも民主主義の国ですが、父親の権威は日本よりよほど強く、父親の子どもに対するしつけはずいぶん厳しい。
父親の働いている姿を子どもたちは見ないにしても、母親の働いている姿はよく見ます。子どもにとって母親が自分のためにいろいろしてくれていることはよくわかります。そこで、子どもは母親を尊敬し、愛することは容易なのです。
その母親が、父親を尊敬し、父親を認めているときは、子どもは母親を通じて父親の姿を認め、尊敬するようになるものです。したがって、母親の父親に対する態度がきわめて大切で、父親と母親との関係、つまり夫婦関係が子どもを育てるうえでも重要となってくるのです。
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われわれの相談室に連れられてくる子どもに接すると、彼らが大人の考える「よい子」の枠に閉じ込められ、そのために問題を生じていることが多い。親の考える「よい子」は、知的に偏りすぎ、人間の全存在としてのあり方を歪ませてしまっているのだ。
この子の存在の歪みを是正するために、心の存在の奥深くから湧きあがる力をなんとかそこに表出させることが必要なのではないかと思われる。思い切ったいい方をすれば暴力というものは、人間存在の深層から外界に向かってなされる直接表現であるとさえいえよう。
心と体とを合わせ、人間を一個のトータルな存在たらしめるために、第三領域として魂というものの存在を仮定するほうが、話が合うことが多いと私は考えはじめている。魂ということに抵抗を感じる人は、体と心に通じる人間存在の深層領域とでも思っていただこう。
ともかく、そのような魂の存在を現代人は忘れてしまっているので、あるいは、心と体の統合性がうまくいっていないので、魂は直接表現として、身体的に表現するなら、暴力というかたちをとらざを得ないのである。
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子どもが望んでいることは、親が全力をかけて、自分に立ち向かってくれることなのである。親はその点を知らず、なんとか「よい方法」で事態をおさめようとする。しかし「よい方法」というのは、端的にいえば親が子どもに対して自分の力の出し惜しみをすることではなかろうか。
子どもが親に望んでいるのは、親の全存在をかけたぶつかりなのだ。それによって得た強いエネルギーの助けを借りて、子どもは大人になるための関門を突破する。親のそのような力をほしいために、子どもは無意識にではあるが、登校拒否になったりしたとさえ考えられるのである。
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人間の「自我」を超えて、もっと人間の深みを考えなければならない。そして、そういう深みを見ていくときに、無意識のことを考えねばならない、ということをいったのはフロイトです。
ユングも「無意識」を問題にしました。無意識というと、「自我」の邪魔をするいやなものだと思うのですが、じつは無意識から出てくるものはマイナスだけではなくプラスもあり、それが思いがけないプラスのことをわからせてくれるのではないか、とユングはいいました。
「無意識」からパッと突きあげてくるものが、マイナスのかたちで起きてくるように見えながら、よくよく考えてみたら、そこをもうひとつ踏まえていくとプラスに変わるのだ、とユングはいっているわけです。
中年までは、少ないものを多くしよう、お金も儲けよう、家も建てようという考え方で進んできますが、その延長上にずっと上がり続けていくことはできない。そうすると、われわれは中年になって、価値の転換が必要であり、いままでの価値と違う見方を取りいれなければならないわけです。
家庭でいうと、夫婦のすごいケンカになったり不和になったり、家庭はうまくいっていると思ったら、今度は職場のほうで転勤などをいい渡される。それをマイナスとみれば全部マイナスです。ところが、これが「中年の発達心理学」の入口なのです。
ここから、本来的な意味の発達、内的な発達がおとずれる。目には見えないけれども、自分の人生をもう一つ違う目で見る。そうすると、ほかの人の生き方も違う目で見ることができるようになり、いままでよりも人生がすごく豊かになる。そのように生きていくとき、人生は非常に深さをもってくる。
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「遠くを眺める」ことは、心の健康にもずいぶんといいことだ。「遠く」というとき、山や雲を見るだけでなく、外国の方まで眺めてみたらどうだろう。ベルリンの壁なんか、絶対に壊れないと思っていた壁が、あれよあれよいう間に壊れた。われわれは絶対にダメと決めつけることで、多くの可能性を奪っていないだろうか。
自分の心の中を眺めて、遠くを見るとどうだろう。(略)今まで気づかなかった人や動物などが、心の中に住んでいるのが見えてくるかもしれない。物陰に隠れている人物が、盗人であったり殺人鬼であったり、あるいは逆に、もっとすばらしい可能性を持った人物が住んでいるかもしれない。
現代の社会は、とくに日本は、忙しすぎる。一分一秒を争うことに人々は力を注ぎすぎて、大切なことを忘れてしまっていることが多いように思われる。常にというのではないが、目の疲労を休める程度には、ときどき「遠くを眺める」ことが必要と思われる。それによって、人生が少し豊かになるのではないか。
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現代の日本人に課せられた仕事は、何かをモデルにして追随することよりも、新しい価値や生き方を創造することだと思われる。そのためには、どうしても対話が必要になる。その対話は、親と子、男と女、日本人と外国人、観点をかえて、宗教と科学との対話ということも考えられる。筆者の場合は、それに付け加えて、意識と、無意識の対話というものもあげてみたい。
対話ということについて、もう少しつけ加えておきたい。それは家族の対話などどいうと、コーヒーなど飲みながら、にこにこと雑談することだけを考える人がいるが、対話はいつもあたたかく、楽しくされるものとは限らないことである。
対話はときに「対決」に近いものになるはずである。自分とはなんらかの意味で異なる存在と話しあうとき、そこには対決が生じるのも当然といえる。しかし、その対決をごまかすことなく話しあいを継続することによって、新しい展望が開けてくるのである。