『50歳からの勉強法』 童門冬二 株式会社サンマーク出版 (2013年11月)
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「起承転結」という言葉は、年代ごとの生き方の四つの変化を表しています。社会へ出る二十代を起とするなら、力を伸ばしていく三十代が承、変化の起こる四十代が転、人生を堅固にし、また終息させていく五十台が結。
いつごろからともなく、ぼくは人の一生は起承転結ならぬ「起承転々」であると思い定めてきました。「もはや人間の一生に結などない、あるのは転だけだ」。かつてなら人生の結びのときであった五十代も、いまはふたたび「転」を迎える時期となる。
では、その五十歳以降の転々の日々を有意義なもの、実り多いものにするためにはどうしたらいいか。そのもっとも有効な方法が「学び」であると思います。
すなわち、いくつになっても知的な好奇心や探求心を失うことなく、自分の知識や能力や教養や見識を少しでも高めるべく勉強を怠らないこと。その老いてもなお学びを忘れない姿勢が、流動的で不安定な転々の人生に骨格を与え、その時間を豊潤なものにしてくれるのです。
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どんな人でも、過去の中に必ず未来の種を宿しているものです。それまでの仕事や生活の中で経験したこと、蓄積した財産のうちに未来への活路を開く有望な鉱脈がすでに潜在している。それを丹念に探し、育てていくことに力を尽くすのです。
五十代というのは、それまで自分の中に培ってきた鉱脈を新しい可能性として表へ取り出すのに最適な時期なのです。五十歳までは知の助走期間で、その本番を迎えるのは実はそれ以降のことなのです。
知命とは「天命を知る」の意ですが、それは「おれの天命はどこにある」と未知の分野や未来の方向にキョロキョロ探すものではなくて、おのが来し方に蓄えてきた知的財産の中にすでに存在しているものです。
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辞書を読むのは迂遠(うえん)な勉強法です。だが、ぼくにいわせればその「迂遠性」にこそ学びの本質がある。ゆっくり体得したものしか本当は役にたたない、という確信を持っています。
あらゆる資料本を二冊から三冊買うのを原則にしています。一冊目は原本として保存、一冊はふつうに読むのに使い、一冊は資料としてフルに活躍してもらうためです。
その資料用の一冊のあつかいはかなり乱暴で、必要なページはたいてい破ってしまうのを常としている。そうやってかき集めたたくさんの破片を並び替えたり、組み合わせたり、カテゴライズしながら新しい史料(資料)が一冊誕生するのです
マーカーで汚したり、ページを折ったり、本はもともと「マゾヒスティック」な性質をもった媒体であるといえます。原型をとどめて保存するよりも、その中身を読んで、理解してもらうことに本来の目的がある。
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ぼくは家の外のあちこちに「書斎」を持っています。書斎だけが学びの場所ではない。電車やタクシーの中など世間のあちこちにある多くの空間が教室であり、そこで出会うみんが自分の教師なのだということです。
駅の売店で新聞や雑誌を買いこみ、行きつけの店で情報の仕込みに専念するのです。こういう店を、仕事場の界隈に四、五軒もっており千利休よろしく「市中の山居」としゃれこんでいます。
モンテーニュはその随想録のなかで「人間は自分だけの三畳間を持つことが必要だ」といった意味のことを述べています。他者とのかかわりをいっさい断って、ものを考え、判断する自分だけの場所、孤独の思想を営む場所。そういう空間が人間には必要である。
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都庁時代、三十代の初めのころ、ぼくは東京都立大学(現在の首都大学東京)に理学部事務長として勤務していた時期がある。当時、理学部長を務めておられたのは森脇大五郎先生で、先生の謦咳に接しながら、ぼくは実に多くのことを学んだ。
肝心なのは、原理と応用、理論と実践、知識と行動、それらふたつはつねに不即不離のもので、べつべつに考えてはいけない。対立するふたつの概念を一対のペアとして両立させることが重要だ。
理論と実践、知識と行動、不易と流行、ゼネラリストとスペシャリストなど、両極の概念のどちらかに偏るのではなく、いずれの視点や思考法も合わせ持つこと。
もう少し俗っぽくいいかえてみると、AかBかの二者択一ではなく、AもBもという二者択二の姿勢が必要であるということになる。これが楕円的思考です。円には中心がひとつしかないが、楕円には焦点が二つある。その楕円のような生き方をせよということです。
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年を経るにしたがって時間の経ち方はどんどん早くなります。若いころ無限にあるように思えた時間にも五十歳という分水嶺を超えるころからにわかに有限感が生じ、あとは年を重ねるごと、日の過ぎるごとにその残量は加速をつけて減っていきます。
放っておけば、この世での持ち時間はどんどん減っていく一方なのだから、意図して「時間をつくろう」としないかぎり、学びの時間も確保できません。その学びの時間を捻出するためにも時間創出の工夫は重要な課題になってきます。
時間の創出方法には主に二つの方向があります。ひとつは所要時間そのものを減らすこと。もうひとつは有益な時間を増やすこと。仕事や勉強において、過ごす時間の中身をできるだけ「濃く」することですが、そのための最良の方法が「同時進行」です。
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読書における同時進行は「質の読書」と「量の読書」の二つをできるだけ高いレベルで共存させる。たとえば、古典とベストセラー、文芸書とビジネス書など、異なるジャンルの本を併読する。あるいは、未読のものを読む一方で既読のものを再読する。
本は全身で向き合ってじっくり吟味すべき本と、点で知識を獲得しながら読み飛ばしていける本の二種類に大別できるものです。そのふたつを識別し、それぞれ相応の時間と方法で読み分けていく。これも同時進行読書を効果的に行う方法といえます。
収入を増やしながら、支出を減らす。これも異なる二つのことを同時進行させる術であり、それは家庭の主婦が日ごろから努めている日常的な営為といえます。
自分は怠け者である。嫌いなこと、不快なことなど、だらだら先延ばしにして、結局放置しかねない。ではどうするか。手のつけにくいものから、やり始めるように改めました。効果は覿面のものでした。
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都庁に在職していたころのぼくは、”一足のワラジ” を履いているつもりでしたから、小説の勉強を仕事と切り離して別個に行っている実感は当時から希薄でした。
ぼくの中の「個」はいつも「ないものねだり」を続けており、当然、達成感が十全に得られることはないから、不平や不満ややるせなさが絶えず心に残存する。ぼくの三十余年の公務員生活は、いわばそうした時間の集積だったように思います。
役人生活を無事平凡に勤め上げていれば、おそらく組織と人間の関係、組織の中の人間のあり方などをつきつめて考えることもなかったはずで、当然、それ(組織と人間)を小説の主題とするようなこともなかった。
その意味で、ぼくの組織人生はまちがってはいなかったといまは思えるのです。そして、このことはぼく以外の誰にとっても同じはずです。人はさまざまな挫折や曲折を経ながらも、たどるべき固有の道をいつのまにかたどっているものだからです。