『小説 渋沢栄一』 津本陽 新潮文庫 1971年
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「あの頃、水戸学の慷慨によって日本男児の熱血を湧き立たせなかったならば、私ものんびりと血洗島の百姓として生を終えていただろう。私を今日の地位に至らしめたのは、まったく水戸学に感化されたためである」。
栄一には、わが能力をできるかぎり発揮してからでなくては、死にたくないという願望があった。そのため従兄の喜作とともに一橋家の家臣となり、さらに幕臣に転じ、下僚の身分からしだいに頭角をあらわしてきた。
民部公子(徳川昭武)に従いヨーロッパを旅行するうち、鉄道交通の便がなければ、国運の進歩発展ができないことを実感した。各都市の交通状態を見れば、それが経済上、社会上の利益であることを感じないわけにはゆかなかった。
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帰朝して旬日を過ごすうち、新政府の役人たちの態度のなかに牢固として棲みついている官尊民卑の観念を見て、自分の行く道は官界ではなく、経済界であると覚った。そのためにはバンクを創設し、債権を発行して大事業を行う仕組みを根づかせねばならないと、栄一は決心したのである。
改正局の第一の企画は全国測量であった。ついでに度量衡の改正案、租税の改正と法案を作成する。栄一たちはこれまで日本に存在しなかった新しい制度、機関をつくりだすため、寝る間も惜しみ討論、審議をくりかえした。
栄一が伊藤博文に租税正の後事を托すまでの一年八ヵ月ほどの期間に、租税制度、土地制度改革、殖産興業に関する新制度の取り決めが百六十件に達した。超人としかいいようのない、栄一の獅子奮迅の努力のあとを推測できる。
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生糸は貿易が始まった頃、輸出商品としてもっとも重視され、生産農家、商人ともに巨利を得た。数年の後、糸価が低下すると生産者、商人は屑糸を入れた粗悪品を売るようになり、輸出量は減少、破産する者があいついだ。
このような現状を改革するため、栄一ら改正掛りは、民部、大蔵省に働きかけ大製糸工場の開設に至った。そのうち、海外では富岡製糸場で生産した生糸が、きわめて上質であると評判になり、注文が殺到するようになる。
富岡製糸場は一万六千坪の敷地に、ヨーロッパ風の設備を整えていた。製糸場の建築を見て、おどろかない者はいなかった。建坪三百坪の大工場は煉瓦建てであるので、支柱がまったくなく、堅牢なること巌(いわお)の如しというのである。
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栄一は『立会略則』(会社を立てる略則)と銀行論『会社弁』を官版として発行させると、全国の商工業者があらそって読み、望外の反響を得た。こののち合本組織、株式会社制度が日本実業界で広く採用された。
栄一は国立銀行条例を公布するための準備を進めていた。太政官札など政府発行の不換紙幣を整理して不健全財政を立て直し、インフレーションを未然に防ぐとともに金融を円滑におこなわせるのが目的の機関であった。
明治六年、栄一は第一国立銀行総監に選任された。総監役は三井、小野という両頭取の上位に立ち全役員を指揮する立場にある。この時三十四才であった。陽は中天に輝いている年頃である。
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栄一はその時分から、私は幸運であるといっていた。大成する人物は、かならずわが幸運を信じるものである。将来を悲観するような消極的な性格の人物が、社会で名を成した例はない。
父は金というものは働きの滓(かす)だといっていた。機械が絶えず運転していると滓がたまるように、人が一心に働いていると、自然に金がたまって来る。従って、金は溜まるものであって、貯めるべきものじゃない(渋沢秀雄 四男)。
どんなに賢い人間でも、社会というものが存在しなければ一人で富むわけにはいかんだろう。その恩恵を受けた社会をほっておいて、我独り富んで宜しいという理屈は、勝手な申分だと思うが、世間には存外この身勝手が多い。
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山路愛山は当時の栄一をこう論評する。「当時、銀行業を発展させた二人の豪傑がいた。渋沢翁と安田善次郎である。しかし二人の目指す方向は異なっていた。安田はただ金貸、両替の本業を後生大事に守り、天性の商才で日本の財閥に食い込み、三井、岩崎と肩を並べた」。
「渋沢翁は、第一銀行の経営のみでなく、日本国の産業についていろいろ世話を焼き、日本国は翁のおかげで多大の益をうけた。ただ、翁は私財を蓄えることに意を用いず、富の道中双六においては、おおいに安田に遅れた」。
「翁は世話役としての勞を惜しまず、小春日和のような優しさで資本家に愛された。その結果、政府にも仲間にも重宝がられ、一にも渋沢さん、二にも渋沢さん、三にも渋沢さんと頼まれては、翁はいきおい繁忙に苦しまざるを得なかった」。
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栄一は第一国立銀行の経営に活躍するかたわら、社会事業にも関与していた。栄一は養育院の監督を府知事から嘱託されると快諾した。栄一は上野の養育院を実地視察して、子供と老衰者、病気で生活の道を失った者の三類に区別して、教養することにした。
養育院に入院する子どもの多くは棄子である。養育院の子供には愉快がなく、自由さがなく、頼ろうとする対象者もいないので、行動が不活発になり、幼いながらも孤独の寂しさを感ずるようになり、それがひいては子供の発育に関係があると知った。
そこで書記の一人にいわば親父の役をするように注意させ、煎餅や薩摩芋を書記の手から与え、時には子供の遊び相手となり親しみを増させるようにした。子供らの発育も良くなり、喜ばしい時も、悲しい時も、また何やかやの不平も訴えるようになった。
栄一はその後長く養育院事業に力を尽くし、東京府の養育院であるか、渋沢の養育院であるか、といわれるようになった。
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父は長年月にわたって、面会を希望する人には誰にでもあった。紹介者や紹介状など不要だった。そして事業上の意見を聞きにくる以外に、いわゆる身の上相談を持ち込んでくる人も少なくなかった(渋沢秀雄 四男)。
そこへ公共事業や経済団体から出席を促す電話がくる。しかし父は身の上相談に余念がない。国家経済から見れば時間の無駄かも知れないが、それが合理主義者渋沢栄一に授けられた、ウェットな不合理性だった。
父は事業を始める時の心得として、一、それが道理正しいかどうか。二、時運に適しているかどうか。三、人の和を得ているかどうか。四、おのが分にふさわしいかどうか。この四点を検討して、納得がいったら始めなさいというのである。
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名を成すは常に窮苦(きゅうく)の日にあり、事を敗るは多く得意の時に因る。
多くの日本人が社会的連帯と制約のなかで不自由な、また抑制された人生を活きているのと違い、栄一は、はじめから独自のプランを持ち、独自のスタンダードを掲げ、何ものをも恐れず堂々と生きてきた。
「いやしくも世に処し身を立てようと志すならば、職業、身分の何たるかをかえりみず、自力を本位として道に背かないことを心がけ、その上で自ら富み栄える計を怠らないことこそ、真の人間の意義あり価値ある生活といえよう。いまや、武士道は移してもって実業道とするがよい。日本人はあくまで大和魂の権化である武士道をもって立たねばならない」。渋沢栄一