『決断力』 羽生善治 2005年7月 角川書店
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私は名人戦を前に物議をかもしていた。一九九四年のA級順位選、当時、四冠を保持していた私は、八回戦の中原永世十段、九回戦プレーオフの谷川浩司王将との対局ですべて上座に座ったのだ。
自分がどんなに若かろうと未熟であろうと、タイトルを持っている限りはその棋戦については代表であるから、それに沿った行動をしなければならない。その結果、反感をかっても仕方がないことだと思っていた。
「羽生、討つべし」との声が広がるなか、米長先生に挑戦した名人戦は、追い込まれるとはどういうことか、追い詰められた場所にこそ大きな飛躍があること、それを骨の髄から学んだ大きな一番であり、私の分岐点となった勝負であった。
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プロ同士の場合はまず一気に挽回することは出来ない。相手のミスがあって、初めて形勢は逆転する。そのときをじっと待つ。期待せずに待つことだ。
冷静に自分のペースを守ることから手が見えてくる。不利な局面でも諦めずに、粘り強く淡々と指していくことが、勝負のツボを見いだすポイントになり、逆転に必要な直感や閃きを導き出す道筋になると私は信じている。
「仲間に信用されることが大切だ」といったのは大山康晴先生だ。信用されるとは、強いと認められること。相手が強いと思っていれば、不利になったとき、粘ってもムダだと諦めてしまう。有利になった時は、ひっくり返されるのではないかと不安がつきまとい、ミスを呼ぶ。
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将棋には、一つの局面に八十通りくらいの指し手の可能性がある。その八十手ある可能性の中から、まず、大部分を捨ててしまう。「これがよさそうだ」と候補手を二つ三つに絞る。
三つに絞った手に対し、頭の中で駒を動かしてみる。それぞれに三つの候補があれば、それで九つ、それが枝葉に分かれて増えていくので、すぐに三百手、四百手になってしまう。ある程度のところで思考を打ち切り、指す手を決断する。
将棋のプロは、先の全てを見通して指しているのではない。そういう五里霧中のなかで、一つ一つの選択をしている。対局中は決断の連続であり、その決断力の一つ一つが勝負を決するのだ。
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リスクを避けていては、その対戦に勝ったとしてもいい将棋は残すことはできない。次のステップにもならない。私は、積極的にリスクを負うことは未来のリスクを最小限にすると、いつも自分に言い聞かせている。
ミスには法則がある。最初に相手がミスをする。次に自分がミスをする。ミスとミスで帳消しになると思いがちだが、後からしたミスのほうが罪が重い。そのミスは、相手のミスを足した分も加わって大きくなるのだ。だから、たった一手の終盤のミスで、ガラガラと崩れ去る。
人生は食事をして眠るだけの繰り返しではない。「こういうことができた」「こういうことを考えた」という部分がある。何かに打ち込んでいる人には、そういう発見がある。それは楽しさであり、人生を有意義にさせる。
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体系化の進歩によって、単にその差し手を知らなかった、研究していなかったというだけで勝負がつくようになった。最先端の知識や情報を「知っている」という、その一点だけで決着がついてしまう。
つまり、過去にどれだけ勉強したかではなく、最先端の将棋をどれだけ勉強したかが重要なのだ。最先端の将棋を避けると、勝負から逃げることになってしまう。
オールラウンドプレイヤーでありたい。一つの形にとらわれず、いろいろな形ができる、そんな棋士であり続けたいと思っている。自分の得意な形に逃げない。自分の得意不得意や好き嫌いでこの形はやらない、ということもしない。
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谷川さんとは、これまで百五十局近く対戦している。通算対戦で最も多いのは、中原誠-米長邦夫戦の百八十三局、二位は大山康晴-升田幸三戦の百六十七局である。谷川さんと私の対局は一番多い数字にならないといけないと思っている
将棋の一手一手に嘘はない。いい将棋を指したいと、真剣な気持ちで選択し、一つ一つを決断している。何十局と対戦してくると「この人はこういう考え方をしているのだな。こういう人なのか」とお互いがわかり合い、安心して対局できる関係になる。
そういう意味で、谷川さんとは、対局から離れるとほとんど話をする機会はないが、最も理解し合い、信頼し合える関係だと自負している。
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以前、私は、才能は一瞬のきらめきだと思っていた。しかし今は、十年とか二十年、三十年を同じ姿勢で、同じ情熱を傾けられることが才能だと思っている。個人の能力の差より、継続できる情熱を持てる人の方が長い目で見ると伸びるのだ。
たとえコンピューターが必勝法を見つけ出したとしても、それを人間が理解することは出来ないだろう。だからそんなことよりも、面白い将棋を指したい。楽しい将棋がいい。未開の地平を開拓していくような、そんな将棋を指し続けていきたいと思っている。