直観力(羽生義治)

『直感力』 羽生義治 株式会社PHP研究所 2012年09月 
 


 
 
 

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棋士は若いときには計算する力、記憶力、反射神経のよさを前面に出して対局するが、年齢を重ねるにつれ少しずつ、直感、大局観にシフトしていくのが普通だ。直感や大局観は短い時間であっても自分の経験則と照らし合わせて使うのである程度の実地経験を積んでからでないと使えないと思っている。
 

その状況を理解するというのだろうか、「ツボを押さえる」といった感覚を得るためには、まずは地を這うような読みと同時に、その状況を天空から俯瞰して見るような大局観を備えもたなければならない。そうした多面的な視野で臨むうちに、自然と何かが湧き上がってくる瞬間がある。
 

その場から、突如ジャンプして最後の答えまで一気に行きつく道が見える。ある瞬間から突如回路がつながるのだ、この自然と湧き上がり、一瞬にして回路をつなげてしまうものを直感という。だから、本当に見えているときは答えが先に見えて理論や確認は後からついてくるのだ。
 
 
 
 

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「見切る」とは必ずしもこれで勝てるとか、こちらが正しいといった明快な答え、結論ではない。(略)絶対の自信はなくとも思いきりよく見切りをつけることができるどうか。それは、直感を信じる力にも通じているのではないか。
 

直感は何かを導き出すときだけに働くのではない。自分の選択、決断を信じて、その他を見ないことにできる、惑わされないという強い意志。それはまさしく直感のひとつのかたちだろう。
 

どんなにデータを駆使していても、そのデータはいま自分が向き合っている局面のものではない。そこに気づきさえすれば、決断をするときに、目の前に広がる現象に囚われその選択にのみはまり込んでしまうことなく、自分自身の中に蓄積されたものに目を向けることもできるのではないか。
 
 
 
 

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(ミスをした時は)まずはともかく一呼吸置く。本当に短い時間でも、ちょっと一休みしさえすれば、ずいぶんと冷静になり、客観性が取り戻せるのではないか。そして、ミスの後の行動を、まったく新しいものとして捉える努力をすることだ。
 

これからの行動を考えるとき、人はどうしてもそれまでやってきたものの連続として考えてしまいがちだ。しかし、ミスをした後、これから始めるべき行動について「もし仮にこれを初めて見たら、自分はどういう判断をするだろう」と想像してみたらどうだろう。
 

「初めて見たら」と想像することと、過去からの連続で考えて判断することは、大きく違う。そのとき思い切って自分の位置を切り替えて「初めてこの場面を見たら」といった視点を持つようにするとよい。さらに、もうひとつ。反省をしないことだ。それは後ですればいいことだ。
 
 
 
 

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先を読んだつもりでも、相手の出方を読んで万全を期したつもりでも、相手がその手を指してこないということもよくある話だ。だから必要以上に悲観しない。黙っていてもその傾向があるのだから、あえて否定的にならないことを意識する。
 

自分の選んだ手にしても、もしもこう指していたらもっとうまくいったのではないかといったことを思う。当然思うわけだ。ところが、そうやっていたらうまくいったという保証などまったくない。
 

つまり、「もしもこうしていたら」「もしかしてこうなるかもしれない」といったことを得てして考えがちだからこそ、そこを意識的にアジャストする作業が必要になる。そうした丁寧な調整作業によって、私たちは自然体になれるのではないか。
 
 
 
 

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将棋に限らずこの世の中、未来永劫安定しているものなど基本的にはない。完結形といったようなものもまるでない。あらゆることが、日々、変わっていく。その時その変化に気づくことができるか。
 

これから先へと進んでいくためには、できれば少し先を見ることができるといい。しかし、現実に本当に見ることはできはしない。それでも過去から現在への変化を見ることは可能。そして、その変化の延長線上に、想像力を働かせることはできる。
 

大事なのはそれらの力を養おうとすることだ。日々の事象に変化を見つけ、その先を想像する。そして一歩進んだら、それを具現化するものを創造してみる。こうして想像力と創造力の両輪を回しながら進んでいく。
 
 
 
 

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起こるべくして起きた、なるべくしてなったというのではないような状況において、「これはどう考えても幸運が味方してくれたに違いない」とか「これはもう本当に不運としかいいようがない」といったことを考えることはある。
 

ただ私は、それら運、不運も天気と同じようもので、たまたまの巡り合わせといった程度のものだと思っている。それを「運命」だとか「必然」だとか、ことさら意味のあるものとは受け止めない。そういうものはあるだろうとは思っているが、あまり固執しないようにしている。
 

運、不運や巡り合わせみたいなものがないということではなく、それらがあった上で、それでも地力があればそういう状況を乗り越えたり、回避したりできるはずだと信じている。そちらに重きをおくべきだと思うのだ。
 
 
 
 

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自然に、ただしできる範囲での努力をして、状況を悪くしないように努める。同時に、気持ちを途切れさせないようにする。いますぐに大きな変化が訪れることはなくても、一つひとつを積み重ねながら、意識を持続させて待つ。それがあきらめないということだ。
 

短期的には否定的で、長期的には楽観的に考える。
 

人は慣性の法則に従いやすい。新しいことなどしないでいたほうがラクだから、放っておくと、ついそのまま何もしないほうへ流れてしまう。意識的に新しいことを試みていかないといけないと思う。
 
 
 
 

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量の蓄積、経験則が増えることによって、自分の中には「できる自信」のようなものが生じてくる。それは、自分自身を信じる力にも当然なり得るが、それを一回捨ててしまったほうが、新たに違うものが生まれやすくなる。
 

だから、データでも資料でも、一度まったく見ないようにするとか、それらは別にして新たな研究を始めてみるといい。すると、既存のものに頼ることはできず、自分で考えるしかなくなる。
 

それは心許なく、何も生み出せないリスクを伴うものであり、同じ地点まで辿りつくのに時間がかかることもあって、効率が悪いように思われるかもしれないが、長い目で見たときには、実はそうでもない。
 

たとえば、ネットで見て覚えたようなことよりも、情報のない中、ああでもないこうでもないと手さぐりで試行錯誤しながら遠回りして体得したことのほうが、確実に記憶に残る。後々になっても使うことができるものになる。