『カインド・オブ・ブルーの真実』 アシュリー・カーン 2001年9月 プロデュース・センター出版局
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序文。(前略)私がただ一人残り、このアルバムを語ることになるとは夢にも思わなかった。誰かほかのメンバーが生きていて、私の代わりにコメントをしてくれればと思う。だが、みんな逝ってしまい、その使命は私に委ねられた。このレコーディングに関われたことを誇りに思う。ジミー・コブ
いつまでも私の愛聴盤だろうね。なにしろ私は毎日『カインド・オブ・ブルー』を聴いている。そのサウンドは、今もしぼりたてのオレンジジュースのように新鮮で、私にとって欠かせないものだ。クィンシー・ジョーンズ
コルトレーンが私たちに貢献できたのは、マイルスが彼の潜在能力を信じたからだと思う。(中略)コルトレーンは、ステージで遠慮がちに、探るように演奏していた。だがマイルスは、コルトレーンに将来性があることを確信していた。ビル・エヴァンス
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ジミー・コブは仲間がマイルスのスタイルを模倣していたことを覚えている。「マイルスのような身なりや立ちふるまいをし、演奏するときにはホーンのかまえ方まで真似る連中がいた。彼が死ぬまで、そんな風に追随しようとする連中がいた」。
クィンシー・ジョーンズは1950年代初期にマイルスの追随者だったことを素直に認める。
「私は<キング・フィッシュ>という曲でトランペット・ソロを、しかもワン・コードのソロ演奏をしなければならなかった。その私の演奏はマイルスに感化されたものだった。
当時はみんなクラブやなんかに出入りしていた。で、ある晩、私のうしろでオスカー・ぺティフォードとマイルスが立ち話をしていた。マイルスがラジオで”それ”を聴いたと言い、こう付け加えた。『つまらんくそったれ野郎がオレみたいに演奏しようとしやがるんだ』とね」。
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「マイルスにとって、主として自分が作曲したアルバムをレコーディングするのは初めてのことだった。私はその朝、レコーディングの前に彼のアパートに行った。そして<ブルー・イン・グリーン>を略記した。あれは私の曲だった。
だから、メンバーのためにメロディーとコード・チェンジをおおまかに書きとめた。それに<フラメンンコ・スケッチ>はマイルスと私の共作だった(ビル・エヴァンス)」。
マイルスが持参したとされる「カインド・オブ・ブルー」の構想はおそらく紙切れにいくつかのおおまかなモチーフが書かれていただけのものだ。ミュージシャンでありプロデューサーでもあるボブ・ベルデンは「ナプキンにでも書けるほど簡単なスケッチだったはずだ」と推測する。
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ウィントン・ケリーが唯一ピアノを演奏した《フレディ・フリー・ローダー》は、最初にレコーディングされたものの、A面の2曲目に収められることになる。テイク・ワンは軽快なテンポで始まる。オープニングから4小節が反復される。まぎれもないブルースである。マイルスはそのテンポに不満を表し8小節目が終わったところで口笛を吹き、テイクを中断する。
「カインド・オブ・ブルー」に一貫する特長はレイド・バックしたサウンドということである。だが、他の収録曲がビル・エヴァンスによるピアノの繊細で神秘的なムードをベースとするなら、《フレディ・フリー・ローダー》はケリーのアップビートで音を転がすようなピアノが効を奏している。
エヴァンスは後に「あの曲のマイルスのブルース・ソロは私が大好きな演奏のひとつだ。3か所で、たった一音に想像を絶するほどのさまざまな意味が含まれている」と断言している。
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《ソー・ホワット》は時を超えて人々を魅了してきたが、その鍵を握るのが、幽玄なプレリュードに続く印象深いオープニング・テーマである。それは、魅力的なメロディーであり、昼下がりに道端ですれ違いざま耳に聞こえる口笛のように、おおらかで自然な哀愁のある抒情詩といえる。
その印象的なプレリュードの作者は誰なのだろう。おそらくビル・エヴァンスではない。また、前述の発言は、そのメロディーが、あらかじめ書かれていたことをうかがわせる。したがってマイルス自身、あるいはもうひとりのエヴァンス、ギル・エヴァンスによって書かれた公算が高い。
マイルスが印象的なソロをとると、コブは絶妙のタイミングでシンバルをたった一度打ち鳴らし《ソー・ホワット》をハイライトへと導く。約2分にわたり簡潔な物憂い語り口でリリカルなフレーズを放つマイルスのソロは、ほとんどトランペットの中音域にとどまり人間の声域と同じように聞こえる。
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ファースト・セッションでは、マスター・マシンのモーターに問題があり、秒速15インチというテープの回転速度にわずかな遅れが生じていた。きわめて微妙な差異だった。コロンビアのマスタリング担当者は差異に気づかず、そのマスターを使い、アルバムを制作した。
アルバムは30年以上の間、プレスされ続けたが、ミュージシャンやファンはおろか、マイルスやサイドメンからもピッチの違いを指摘する声は上がらなかった。そして33年後の1992年。ようやくエンジニア、マーク・ワイルダーが鋭い耳でその差異を捉えた。
「再発する場合いつもマスター・テープが使われた。だから、たまにはセイフティ・テープを使おうと言ったんだ。で、セイフティのサウンドが何か違う気がして知り合いのトランペッターを呼んだ。彼はマイルスのソロに耳を傾けると、私の耳が正しいことを請けあった」。
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後年、エヴァンスが「あのレコーディングはいい雰囲気だった。だが、あれほどの影響力と永続性をもつとは夢にも思わなかった。誰も思わなかったと思うよ」と語っている。そして、冷静に付け加える。
「プロフェッショナルは、水曜の10時と言われれば、その時刻にスタジオに入り、レコーディングをしなければならないが、常にベストを尽くしたいと思うものだ。その余裕がプロフェッショナルというものであり、その姿勢が、分野を問わず、パフォーマンスを質の高いものにするんだ」。
それが、マイルス・デイヴィスとビル・エヴァンスの最後の共演であった。
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『カインド・オブ・ブルー』は、従来のジャズのあらゆる伝統的手法を凝縮したものとして捉えうる。アルバムには《フラメンコ・スケッチズ》におけるモード・ジャズ。《ソー・ホワット》の印象主義的オープニングにおけるサード・ストリーム。マイルスのソロにおけるクール。キャノンボールのソロにおけるビバップ。
《オール・ブルース》のユニゾンによるホーン・ラインとやさしいリズミックなドライブにおけるスウィング。《フレディ・フリー・ローダー》におけるブルース。《ブルー・イン・グリーン》におけるバラードというように。
ハービー・ハンコックも彼の世代にとっての『カインド・オブ・ブルー』の重要性をこう語る。「私たちの世代にとって、はじめて『カインド・オブ・ブルー』が新時代への扉を開いた。私たちは1940年代に生まれた。だから、スウィングとモダン・ジャズの変わり目に立ち会っていない。
私たちがジャズ・シーンに注意を払ったころには、すでにビバップがあたりまえのようにあった。『カインド・オブ・ブルー』が出るまで、私たちはジャズにまた別のアプローチがあるとは思わなかった」。