『一米七〇糎のブルース』横尾忠則 1969年 新書館
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今、私が欲しいのは二糎米である。あと二糎米で私の身長は一米七〇糎になる。もし私の身長が一米七〇糎あったなら、私はどんなに大きな自信を持つことができたか知れない。この本に集められた過去のエッセイは、全て私の願望を表したものばかりである。
二〇年近く西脇市に住んでいてはじめて神戸に出てきた時、すべてにおいて田舎者の私にはこのエキゾチックな街がまるで外国のように見えた。この横文字の似合うKOBEは一ヶ月足らずで私の精神構造まで変革せんばかりの鮮烈な都会の香りで私を酔わせた。
十九歳で神戸にきた私は、あまりにも田舎臭い自分が惨めで、たとえようのない屈辱感に、私は深いコンプレックスの傷口の血を止めるすべも知らなかった。この都会コンプレックスは、逆にますます私を仕事の虫にしてしまった。
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現状維持ではダメ、イメージチェンジをはかれ。ヘアースタイルを変えたり、思い切り派手な色を着ることだ。女の子に対しては他の男のほめないところをほめろ。無精ヒゲは禁物、ツンパも毎日とりかえ、清潔な印象を武器にしろ。
赤い真赤なあっしの目をそんじょそこらの三ン下絵師の、めしつぶ稼ぎで充血したのたァ、ごっちゃにされちゃ死んだおふくろが泣くというものよ。あっしの目の赤けいのは、いわずと知れた、ご存知東映深夜興業にきまっているじゃござんせんか。
私は流行の加害者になりたい。そして被害者にはなりたくない。デザイナーは犯罪者でばければならない。そして常に首に縄がかかったお尋ね者でなければならない。
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日本の若者も、ヨーロッパのヒッピーがやっているような大胆なことを、やってみればいい。ヒッピーなんか、因襲に対して反逆している感じがするけれども、今の若者のおしゃれじゃ、そういう感じはしないですね。
ぼくは、趣味と思想を分けている。ぼくは日本の土着的な情念を発想の原点にしているから、洋服とか、おしゃれの場合は、まったくそれでないもの、つまりかなり流行的なパターンを強引に取り入れても、着こなし方やちょっとしたことで、単なる軽薄から逃れられるような気がする。
外面で軽薄なかっこうをしていると、かえって、おれはこんな軽薄なかっこうしているけれども、かっこうだけじゃだめだ、仕事との落差がないように、いい仕事をしなきゃいけないという気持ちが湧いてくる場合がありますよ。ぼくはそんなふうにやりたいな。
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アメリカで個展を開くまでは、ぼくは劣等感を持っていました。(略)自分が街を歩いていても、ウインドウに写る姿が非常に貧弱に見えて人間じゃない別の動物みたいな気がして‥‥。すれ違う人が全部ぼくの頭から足の先まで見るようでね。
ところが、展覧会が始まって、時間がたつにつれて評価されてくると、さっきまでとはぜんぜん違う、何か、洋服までカッコよく見えちゃうわけです。
街を歩いても、もう、誰もぼくを興味本位では見てないわけです。ウインドウに写っていても、ぜんぜん貧弱じゃない。大きく見えるのです。アメリカを征服できるという気持ちになっちゃった。
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私は、ほとんど一日中事務所にいるが、毎日レコードを聞いたり、大福を食ったり、小説を読んだり、カーペットの上に寝ころんだりしながら、ほとんど仕事らしい仕事はしない。仕事がないからではない、たくさんありすぎて、どこから手をつけてよいのかわからないだけだ。
「後一日待って下さい」といいながら、三か月も、時には一年も伸ばしている仕事が今でも二つ、三つはある。毎日、コンスタントに仕事をしていれば、締切日に苦労しなくてよいのだがラジオ体操のような単調な繰り返しの中では、平均的な作品しか生まれないのだ。
私はその日の気分を大事にしたいのだ。それでもいくつかの仕事の締切日が近づくと、その焦燥感から、やけっぱちになって遊びにいってしまう。そして自らをマゾヒスティックな状態に陥れて、泥沼の中で喘ぎ苦しみながら仕事に入っていくのだ。
そのときのマゾヒズムは他の何物にも替えられないほどの充実感が、全身にみなぎる。そんなときの仕事こそ、密度があり、次元が高い。バランスのとれた思考と肉体では、ある線を超えた仕事ができないのだ。
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ぼくは目と耳がシンクロできなきゃダメなんですよ。それから歌は下手でも映画スターは映画の中で色々な人生をドラマティックに見せてくれるでしょ。あれが、歌のイメージを豊富にしてくれるんだなあ。
歌手はいつも舞台なんかでやってるでしょ。だから、お客の顔色見たり、要領を知りすぎていたりして、両手をパッと関取みたいに拡げて、おいらにまかしときな、というふうに拳を握りしめ、グッと手前に引き寄せ、アンア、アーンとやったり‥‥、許せないですね、あの態度、ぼくは。
その点、映画俳優は、テレたり、アガったり、ぶっきらぼうだったりして、素人のぶんざいで本職のまねして申しわけない、という後ろめたさや、下手で当たり前、上手いともうけものと、のびのびやれるんですよね。あれが好感持てる原因だと思わないですか。
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現在でも私は複数の他人の前にでるとたちまち動揺して、あがってしまい、急に失語症になってしまう。そして同時に急性記憶喪失症にかかってしまい、例えしゃべっていても、軽い精神分裂をおこし、顔は紅潮するか顔面蒼白かどっちかになってしまうのだ。
例えばテレビに出演したときなどは、この症状が特に激しく発作的におそってくるのだ。自分が動揺しているのを相手に見抜かれたくないために、冷静さを装うのだ。だから、ついブッキラ棒になったり、不機嫌な表情になり、無口になってしまうのだろう。
無口を指摘されると、今度は口を開こうとする。しかし口から出てくる言葉は心と裏腹の口から出まかせな無責任な放言に近いものとなる。話し相手がほんの少しでも私のことを良くいうと、一瞬にしてポーッとあがってしまい、身の置きどころがなくなってしまう。
例えば、「ヒゲが似合いますよ」(高倉健)とか「すごく指が長い」(浅丘ルリ子)とか「いいジャンバー来てますね」(立川談志)ぐらいで、いちころにあがって夢幻境をさまよっている感じで、これが三〇すぎた男かと思うほどダメになってしまうのだ。
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ハダカになったり、一見ハデなことをやったりするのもその恥ずかしさの裏返しだと思うんです。羞恥心の堆積を、どこかでいっぺん爆発させないと、息ができないような気がしたんです。それに、ぼくって、そういうときにはまた、ちっともテレないで、驚くほどハレンチになれるんです。
絵やデザインをしている分には多少自信はあっても、文章を書いたり、テレビに出演することは、すべて私のイラストやデザインを帳消しにしてしまっているような気がする。
しかし、帳消しにされたところからしか新しいものができないと信じる私は、このオッチョコチョイぶりもやむを得えないと考える。