P-FUNK

『P-FUNK』 河地依子 川出書房 2011年04月
 


 
 
 

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1956年ザ・パーラメンツを率いながらニューアークの床屋「アップタウン・トンソーリアル・パーラー」でも働いていたジョージは、当時アメリカ黒人の間で流行していたプロセスという縮毛矯正と、それにウェイブをかけて仕上げる技術にかけては、町で評判の腕を持っていた。
 

《モータウン》のオーディションを受けられることになったザ・パーラメンツは、ギタリストを従えてデトロイトに赴いた。審査員は敏腕プロデューザーだったミッキー・スティーブンソンでテンプテーションズに似ているから必要ないという彼の判断であえなく不合格となった。
 

ジョージは毎週ニューヨークに通った。本当はザ・パーラメンツ全員でニューヨークに行ければよかったが、金銭的にそれだけの余裕がなかったためメンバーがそれぞれの仕事で稼いだお金を出し合ってジョージの交通費に充て、すべての夢をジョージに託した。
 
 
 
 

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60年代後半、我々の親の世代のブルースの影響を受けたイギリスのロックが逆輸入された時、キッズたちは夢中だったよ。それで”Go Crazy!”って決めて、すべてをひっくり返してやろうと思ったんだ。俺たちが馬鹿なことをやるのをアシッド(LSD)の錠剤が助けてくれた。それ以来ずっとこんなだよ(笑)。
 

69年ジョージは遂にバーニーを呼び寄せた。こうして、ビリー・ベース・ネルソン、エディー・ヘイゼル、レイモン・ティキ・フィルウッド、タル・ロス、バーニー・ウォーレルの「オリジナル・ファンカデリック」と呼ばれる五人のメンバーが揃った。
 

エディーはリハーサルの段階から完璧にやろうとし過ぎて、回を重ねるほど、自分のやったものが気に入らなくなっちゃうんだ。あいつのジャムの中にある何かが失われてるんだ、わかるかい?あいつは何でそんな風に感じるかわからなかった。で、何年か経って聴き返すと「これ、すげえいいじゃん」なんて言い出す始末さ。
 
 
 
 

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当時(60年代後半)のデトロイトのミュージシャンの溜まり場にもなっていたクラブ「トゥウェンティー・グランド」での彼らのショーには《モータウン》のプロデューサー、ノーマン・ホイットフィールドやジェフリー・ボウエンなどがよく見に来ていたという。
 

「《モータウン》のサウンドは少しずつ変わっていくと思う。テンプテーションズの『Cloud Nine』を聴いた?僕たちはファンカデリックと呼んでいるんだけど、R&B、サイケ、アフリカンなファンキービートの組み合わせだ。最近はファンカデリックをたくさんやっているよ」スティーヴィー・ワンダー。
 

そしてノーマンの後、テンプテーションズの正統的なファンク路線を担ったジェフリーもまたパーラメント、ファンカデリックの大ファンだったことに疑いはなく、以降いくつかの場面で彼らに深く関わってくることになる。
 
 
 
 

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73年ブーツィーがデトロイトに戻ってきた。そして、その頃に録音されたのが「Up for The Down Stroke」と「Chocolate City」だ。
 

「Up for The Down Stroke」には、ブーツィーがJBに叩き込まれた「The One理論」すなわち「最初の一拍目をきちんと演奏しろ。あとは何をやってもいいが、一拍目には必ず戻って来い」というJBファンクの鉄則が適用されている。
 

75年の「Chocolate City」は、間もなくやってくる全盛期への幕を開けた作品だ。収録曲の半分ほどがジョージ、バーニー、ブーツィーの黄金トリオによる作となる。
 

ジョージはタイトル曲でラジオ局のDJ風の語りという新技で黒人たちに語りかけた。「モハメッド・アリが大統領、リチャード・プライヤーが教育大臣、スティーヴィー・ワンダーが芸術長官、アリサ・フランクリンがファーストレディだとしても驚くな」。
 
 
 
 

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JBズのトロンボーン奏者フレッド・ウェズリーは、JBのアイデアを譜面に起こすという仕事を含めJBズの音楽監督という重要な役割を果たしていた。ブーツィーはフレッドを呼び寄せ、フレッドはJBズの目玉のひとつでもあったサックス奏者のメイシオ・パーカーも連れてきた。
 

フレッドは加入にあたり、メイシオと一緒にホーンセクション不在のPファンクのショーを見に行き、どういうホーンセクションを加えたらいいかを考えた。下見の結果、自分のトロンボーン、メイシオのサックス、トランペット2本の四管にすることを決めた。
 

ホーンアレンジについてジョージ、ブーツィー、バーニーからの指示は「思いついたことは何でもやってくれ」「ありきたりにはしないように」「カッコよく」くらいのものだった。何につけても厳格なJBのバックを経験してきた者にとって、こうしたジョージのやり方が、どれほど楽しくミュージシャン冥利に尽きるものであったか。
 
 
 
 

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77年終盤には、早くもパーラメント名義の七作目『Funkentelechy vs. The Placebo Syndrome』が発売された。
 

アンファンキーを象徴するサー・ノーズ・ディヴォイドブファンクが「俺はシワひとつないスーツでビシッとキメて汗なんかかきたくないから踊らない。それってクールだろ?」とほざきながらスヌーズ・ガン攻撃でファンク撲滅を図る。
 

だが、ドクター・ファンケンスタインが完璧にファンキーに作り上げたスター・チャイルドが、相手を傷つけず精神を緩めて解き放つ効果を持つバップ・ガンの攻撃で応酬し、見事サー・ノーズを躍らせることに成功する。
 

このアルバムからのシングル「Flash Light」は78年早々、ついにPファンク初のR&Bチャートの一位を獲得する。この曲は本来ブーツィーズ・ラバー・バンドの曲だったが、気前のいいブーツィーはジョージにあげたのだそうだ。
 

ブーツィーは「当時は自分でカッコいい曲を独り占めするよりも、みんながカッコいい曲を持つことの方に関心があっったし、あの曲はコンセプト的にもラバー・バンドよりもパーラメントの方が合っていると思ったからさ」と、事もなげに言っていた。
 
 
 
 

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ツアーを共にしていたロジャーは、ザップ名義作をワーナーから、ロジャー名義作をアンクル・ジャム(ジョージのレーベル)から出すというプランでレコーディングしていたが『ZAPP』のヒットによって、大金を積んできたワーナーにマスターを売ってしまう。アンクル・ジャムは深刻な資金不足に陥った。
 

当時の状況をジョージはこんな言葉で説明する。誰でも服や家電製品、車など一定の期間が過ぎれば壊れたり古くなったりして買い替えるのと同じことが、グループにも当てはまる。何年かはうまく回っていくが、3~4年もすれば、あらかじめ予定されていた宇宙の力が背後にせまって上手くいかなくなるのだ。
 

ジョージのお得意の言葉を借りるなら”Funk is going nowhere, it’s always coming”だから”You do the best you can and after that, funk it”ということになる。