『マイルス・デイビス自叙伝1』 2000年1月1日 宝島社
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初めてディズとバードを聴いた1944年のあの夜のフィーリング、あれが欲しい。近いところまでは行くんだ、でもやっぱり違う。それでもオレは毎日演奏する音楽にあれを求めている。
なんでも覚えてやろうとたくさんのミュージシャンの後をくっついてまわった子供の頃のことは、今でもよく思い出す。彼らは今だってオレにとってはアイドルだ。あの時代が頭から離れない。本当にものすごい日々だった。
オレは1944年の秋の初めに荷物をまとめて、ニューヨーク行きの汽車に乗った。心の中ではニューヨークのヒップな連中の鼻を明かしてやろうと思っていた。自信はあった。オレはいつだって、新しいことをやるのに怯えたりはしない。
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ニューヨーク。ジュリアード音楽院の白人の女性講師は「黒人がブルースを演奏する理由は、貧しくて綿花を摘まないとならないから、悲しくて、その悲しみがブルースの根源になった」みたいなことを言った。
オレはすかさず手をあげて言った。「ぼくは東セントルイス出身で、父は歯科医なので金持ちですが、ぼくはブルースを演奏します。父は綿花なんか摘んだことがないし、ぼくだって悲しみに目覚めてブルースをやっているわけじゃない。そんな簡単な問題じゃない」。
「マイルス。オレを探していたのかね」。降り向くと、そこにバードいた。だぶだぶの服で、赤く腫れた目をしていて、顔もむくんでいた。だが、酔いつぶれたり、めちゃくちゃになっても、バードだけのヒップさは健在で、実にクールだった。
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白人の評論家どもは、まるで自分たちがビバップを発見したみたいに言いやがったが、ミュージシャンや事実をちゃんと受けとめる人間は、ビバップがハーレムのミントンズで起こったことを、ちゃんと知っている。
月曜の夜の『ミントンズ』には、バードとディズが決まってジャムりに来ていたから店は超満員だった。わきまえているミュージシャンは、二人がきたら、静かに客席に座って、二人の演奏を聴いて勉強したものだ。
『ミントンズ』の流儀は、誰もが楽器を持ってきていて、バードかディズがステージに誘ってくれるまで、ただひたすら待つというものだった。そして、その幸運に巡りあえたら、モノにしなくちゃダメなんだ。
オレ?上手くやったぜ。いつのまにか、気が向けばいつだって『ミントンズ』で吹けるようになった。客もオレを聴きにくるようになったし、オレのことが話題になり始めた。
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オレは図書館に行ってクラッシックの偉大な作曲家の楽譜を借りていた。ジャズ以外の音楽で何が起こっているかを知りたかった。手に入れられるのに、黒人ということだけで手を出さずにいるのが、オレにはわからない。
音楽ってやつは、スタイルが全てだ。オレがシナトラと共演するとしたら、彼が歌っているように吹くか、彼の歌い方に味付けするように吹くかなんだ。猛烈なスピードで吹いたりしない。間で演奏するんだ。
「クールの誕生」に影響を受けたスタン・ゲッツら白人ミュージシャンが演奏する音楽はクールジャズと呼ばれていた。黒人の作ったものが、白人に盗み取られたってわけだ。よくある話さ、クソッ。
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バードは笑いながらスタジオに入ってくると、得意のイギリス訛の英語で「準備はいいか?」と聞きやがった。おまけに、演奏が始まる時になると、今度は「何をやるんだ?」ときた。そしてどんな曲でも寸分の狂いもなく吹き切った。本当に、マイッタ。
バードにすごい演奏をされると、まるで初めて音楽を聴いたような気分になった。ずっと昔、オレとソニー・ロリンズはそんな演奏をやってみようとしたし、コルトレーンとはあの短かくて強烈なフレーズをやろうしたこともあった。
バードだけの、あの有名な音符とフレーズの組み合わせ方。普通のミュージシャンは理屈に沿った展開をしようとするが、バードはおかまいなしだった。ノリにノッて本気で吹いている時のバードは驚きの連続だったが、いま思えば、オレはそんなバードと毎晩一緒だったんだ。すごいことじゃないか。そうだろ?
1946年の夏、アメリカで最も有名な歌手の一人”B”が連絡してきた。「演奏があってもなくてもお前だけは週200ドルだ。誰にも言うんじゃないぞ。言ったらぶっ飛ばすからな」。カリフォルニア中を”B”のバンドで演奏してまわったおかげで、オレの評価は高まっていった。
ハンサム過ぎてみんな”B”を優しい奴だと思っていたが、あんな荒っぽい奴には会ったことがない。オレは彼から、嫌な連中の扱い方を教わった。「消え失せろ」と言えばいいんだ。それ以上は、時間の無駄ということだ。
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1953年「ウォーキン」をレコーディングしたが、あのレコードはオレの人生と経歴の全てをすっかり変えてしまった。ホレスが彼流のファンキーなタッチでベーシックな部分を支え、ケニーはすばらしいリズムを刻んだ。本当の大傑作だった。
1955年オレたちのグループは、トレーンのテナー、レッド・ガーランドのピアノ、ポール・チェンバースのベース、フィリー・ジョーのドラムス、オレのトランペットだった。あまりにもすごいので夜な夜な背筋が凍る思いをした、客も同じだった。
反抗心、黒人、クールさ、ヒップ、怒り、なんであれ、オレにはその全てが揃っていた。しかも、オレはそれ以上だった。オレはトランペットを演奏し、信じられないほど、緊密で、芸術的なジャズ界最高のバンドを率いていた。
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1957年5月ギル・エバンスとスタジオに入った。「マイルス・アヘッド」のコンセプトを思いついたんだ。いつも会っていたが「マイルス・アヘッド」をやった時、ギルとオレは音楽的に特別なものを持っていると、はっきり自覚した。
「マイルス・アヘッド」が出てからディズが「あのレコードをもう一枚くれ」と言ったことがある。かけすぎて、一枚目は擦り切れたってことだった。ディズは「本当に最高だ」とも言ってくれた。最高の賛辞だった、わかるだろ?
ニューヨークにいる時は『ファイブ・スポット』に行ってはコルトレーンのいるモンクのバンドを聴いていた。トレーンはオレがやったようにコールドターキーで麻薬常習癖をすっかり直していた。奴の演奏はすばらしく、モンクもすばらしかった。
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1956年プレスティッジへの最後のレコーディングをやった。これはすごく長時間の一回のセッションで、スティーミン、クッキン、ワーキン、リラクシン、に入っている曲の全てをやっつけた。この4枚は本当にすばらしい演奏だ、今でも大いに誇りに思っている。
オレはミュージシャンとして、芸術家として、できる限り多くの人々に音楽を通して話しかけたいと考えてきた。ジャズだって、ポピュラー・ミュージックみたいに、たくさんの人に聴かれるべきだと考えてきた。そうだろ?
1957年12月ニューヨーク。準備は完全に整っていた。(ヤクでクビにした)トレーンに戻って欲しいと伝えた。彼は一言「OK」と答えた。オレは、ものすごい何かが起こると確信し、それは本当に起こった。完璧なまでにな。
< 一巻完 >