マイルス・デイビス自叙伝2

『マイルス・デイビス自叙伝2』 2000年1月1日 宝島社
 


 
 
 

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誰だって、いつもと違うことをやらなければならない状況に置かれたら、そのためには特別な考え方をしなきゃならない。もっと想像力を働かせ、創造的にも革新的にもなって、冒険をしなくちゃならない。自分が知っていることよりも、ずっと上のことを演奏しなくちゃならない。
 

その結果、いままで以上の所に、さらにそこから進んだ新しい段階へ、あるいはそれをも超えた場所へ導かれることになる。そうなれば、もっと自由に、物事を違った角度から見られるようになる。何が起こるか予測することも、知ることもできるようになる。
 

オレは自分のバンドのミュージシャンには、いつも、自分が知ってることを演奏しろ、そして、それ以上のこともやれと言い続けてきた。そうすれば、なんだって起こり得る。偉大な芸術や音楽は、そうやって生まれてくるものなんだ。
 
 
 
 

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トレーンが歯医者に行くと言い出して、オレを心配させたことがある。トレーンは二つの音を同時に吹いたが、オレは、それは歯が抜けてるからできるんだと信じていたんだ。
 

どんな歯を入れるんだと聞くと「固定するヤツだ」と言うから、オレは、演奏の時に取り外せる差し込み式にするよう、説得しようとした。奴は「お前は馬鹿か」とでも言いたげな目つきでオレを見ていた。
 

で、歯医者に行くと、ニヤニヤ笑って、ピアノの鍵盤みたいに並んだ歯を見せながら帰ってきた。その夜のステージ、オレはソロを吹き終えると、フィリー・ジョーの脇に行き、トレーンが吹き始めるのを待っていた。
 

もう奴はいつものように吹けない、オレはほとんど涙ぐんでいた。だが奴はいつものように、ものすごいフレーズを吹きまくったんだ。ステージの上には、トランペットを持った馬鹿野郎が胸をなでおろして立っていたってわけだ。
 
 
 
 

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1963年にトニー・ウィリアムアスと出会った。トランペッターは素晴らしいドラマーと演奏するのが好きだが、オレは奴を聴いた途端、その場で、こいつはドラマーの中でも飛び切りのミュージシャンになると確信した。
 

ウェイン・ショーターがジャズ・メッセンジャーズを辞めたという。彼から電話がかかってきた時には、オレは「飛んでこい!」と叫んだ。ウェインが入ったらすばらしい音楽ができるという確信があった。そして本当にすばらしい音楽が生まれた。
 

オレには必要なものが全部揃っていた。オレがこのバンドのインスピレーションであり知恵であり、つなぎ役で、トニーは創造的なひらめき、花火で、ウェインはアイデアの源泉で、いろんなアイデアに形を与え、ロンとハービーは全体をまとめていた。
 
 
 
 

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『ビレッジ。バンガード』で演奏していたある時、主人のマックス・ゴードンがあるボーカリストの伴奏をやらせたがった。オレは女の伴奏なんかやらないと言った。で、ハービーとトニーとロンが伴奏したんだが、客は大喜びだった。
 

マックスに名前を聞くと「バーブラ・ストライサンドという女だが、絶対にビッグ・スターになるね」と言う。だから今、彼女をどこかで見かけるたびに、オレは「コンチクショー」と呟いて、頭を振っている。
 

1967年7月ジョン・コルトレーンが死んで、みんなを大混乱に陥れた。彼が最後の二、三年間にしていた演奏は、特に黒人の若い知識層や革命論者の間で、彼らが感じていた炎、情熱、激情、怒り、反抗と愛情を代弁するものだった。
 
 
 
 

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1969年2月レコーディングのためスタジオに入った。メンバーはオレとウェイン・ショーター、チック・コリア、ハービー・ハンコック、ジョー・ザビヌル、ディブ・ホランド、トニー・ウィリアムス、ジョン・マクラフリン。「イン・ア・サイレント・ウェイ」だ。
 

ジョー・ザビヌルの曲が好きだったから、電話して何曲かスタジオに持ってくるように言った。その中にあった「イン・ア・サイレント・ウェイ」という曲がレコードのタイトルにもなったんだ。
 

ジョーはオレが彼の曲に手を加えたことが気に入らなかったらしい。だが、うまくいったんだしそれが一番重要なことじゃないか、違うか?今じゃ多くの人々が、彼のあの曲をクラッシックとして受け入れ、フュージョンの原点だとしている。
 
 
 

「イン・ア・サイレント・ウェイ」を終えると、新しいバンドでツアーに出た。八月までツアーを続けて、それからスタジオに戻ってレコーディングした。それが、「ビッチェズ・ブリュー」だ。
 

あのレコーディングは、偶然性に富みながら、音楽の中で起こり得る異なった可能性に対して全員が注意を払っていた。創造的な過程が展開された動的で生きた作曲でもあった。あの夏の三日間は、毎日スタジオから帰る時には、全員がすごく興奮していた。
 

オレが求めていたことは、前もってアレンジされたものじゃない、一つのプロセスを通して初めて実現することがわかっていた。インプロビゼーションがあのレコーディングの全てで、それこそが、あの音楽をあんなにすばらしいものにしたんだ。
 

「ビッチェズ・ブリュー」は、それまでのオレのどのレコードよりも速いスピードで売れまくって、ジャズとしては史上最高の売り上げを記録した。若いロックファンがたくさん買って、どこに行っても話題にし、だれもが興奮していた。
 
 
 
 

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オレはもっとブラックなサウンドを発展させてみたかった。もっとリズミックに、ホワイトロック的じゃなく、もっとファンクにというのが、オレの求めていたことだ。
 

オレが「オン・ザ・コーナー」(1972年)でやった音楽は、どこにも分類して押し込むことができないものだ。なんて呼んでいいのかわからなくて、ファンクと思っていた連中がほとんどだったけどな。
 

あれは、ポール・バックマスター(英作曲家)、スライ・ストーン、ジェームス・ブラウン、それにシュトックハウゼン(独前衛作曲家)のコンセプトと、オーネットの音楽から吸収したある種のコンセプト、そいつをまとめあげたものだ。
 

あの音楽の基本は、空間の扱い方にあって、ベース・ラインのバンプ(リズムのみの演奏)と核になっているリズムに対する、音楽的なアイデアの自由な関連づけがポイントだった。オレはバックマスターのリズムと空間の扱い方が気にいっていた。それは、新しいベース・ラインに合わせて、足でリズムがとれるような音楽だ。
 

ホーン型スピーカーは、すべての音を、譜面に書かれた音よりも、高い音ならより高く、低い音ならより低く響かせる。音楽ってヤツは、いま起きている出来事を反映して移り変わっていくものなんだ。それがエレクトリックなのは、人々の耳もそうなっているからだ。
 
 
 
 

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オレは1975年から1980年の初めまで一度も、ただの一度もだ、トランペットを待たなかった。指一本、触れなかった。トランペットのそばまで歩いていってはじっと見つめて、吹いてみようかと思うことはあった。だが、いつのまにかそばに寄ることさえなくなった。
 

オレは双子座で二人分の人格があったから、全部で四人の人間がオレの中にいた。コカインをやっている時の二人と、やっていない時の二人だ。良心のあるのとないのが二人ずつ、鏡を見ると、この四人の顔が全部写っていてまるでホラー映画を見るようだった。
 

顔以外、オレは全身傷だらけだ。顔は問題ない。鏡に向かって「マイルス、お前はなんてハンサムなんだ」と言うくらいだ。
 
オレの傷は、多くの悪いことや、どうしようもない逆境から何度も立ち直り、最善を尽くしてきたことを物語っている。オレの傷は、逆境に負けなかったこと、心意気と不屈の精神を持ってやり続ければなんでも成し遂げられるということを示すものだ。
 
 
 
 

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ワーナーブラザースでの最初のレコードは1986年にレコーディングした。タイトルの「ツツ」というのはノーベル平和賞を取ったデスモンド・ツツ司教のことだ。「フル・ネルソン」という曲も、ネルソン・マンデラに因んだものだった。
 

マーカス・ミラーが「ツツ」の音楽のほとんどを書き、ジョージ・デュークが多くをアレンジした。マーカスが音楽に取り組みはじめると、すべてがすばらしい形を整えはじめた。スタジオでのオレ達は最高のチームだった。
 

プリンスが「ツツ」に自分の曲を提供したくて作曲もしていた。オレはワーナーの人間を通じてはじめて、プリンスがオレの音楽が好きで、オレをヒーローの一人として考えていることを知った。彼がそんなふうに思ってくれているなんて、とても誇らしく思ったものだ。
 
 
 
 

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年を取ってくると、死んでしまった連中が懐かしくなる。彼らの霊はオレのなかで動きまわっている。それはとてもスピリチュアルで霊的なことで、オレの現在の一部は彼らだ。彼らから学んだすべてがオレの中に息づいている。彼らの音楽がどこかで生きている。
 

オレはよく、煙とか雲とか、そんな類のものが見えそうな場所で彼らに思いを馳せる。そうするとオレの心が、彼らの姿を映し出す。おふくろかおやじか、トレーンかギルかフィリーか、会いたい時にそうする。「会いたい」と言うと話ができる。
 

今は、すごく創造的で活発だ。オレの音楽を一歩一歩進められるように、毎日の演奏のたびに一歩ずつ前進するようにがんばり続けるだけだ。そうだ、一歩ずつだ。

それじゃあ、またな。