『アップルを創った怪物』 スティーブ・ウォズニアック 井口耕二訳 2008年11月 ダイヤモンド社
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僕は父親が何をしていたのかほとんど知らない。我が家では秘密だったんだ。おやじがエンジニアだということは知っていたし、ロッキード社でミサイル開発をしていることも知っていた。でもそのくらいしか話してもらえなかった。
おやじは教えるのがとっても上手な人だった。抵抗とはなんであるか、なんてところから説明は始まらない。物事の原理までさかのぼってスタートするんだ。原子、電子、中性子、陽子がどういうもので、どういう具合に物質を構成しているか、からだ。
エンジニアリングとは世界でもっとも重要なことだとおやじは言っていた。人々の役に立つ電子機器を作れる人は社会を一歩前に進められる人だと。エンジニアなら世界を変えられる。多くの人々の生活を変えられるって、教えてくれた。
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アップルをはじめ、いろんなところでいろんな人と仕事をしたけど、途中のやるべきことをすっとばして最終段階だけをなんとかしょうとする人をたくさん見た。そんなの、上手くいくはずがないんだ。絶対に無理なんだ。
認知的発達というやつで、ただそういうものなんだ。今、理解しているレベルの二段階上なんて、誰にも教えられはしない。この知識は、いつも呪文のように言い聞かせているんだ。一歩ずつってね。
僕は世界的に有名なコンピューターについて、少しでも少ないチップで動くように、何度も紙の上で設計を繰り返し、コンピューター設計の達人の域に到達した。ただ、組み立てをしていないだけだった。
そのころのチップはとても高いもので、ただでサンプルをくれと頼む勇気は、僕にはなかった。この1年ほどあとにスティーブ・ジョブズと出会うんだけれど、彼は販売担当者に電話をかけ、ただでチップを手に入れられる勇者だった。
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コンピューター革命が始まったときを、僕は正確に把握している。コンピューター革命は1975年3月、けったいな人々が集まり、ホームブリュー・コンピュータークラブの第一回会合が開かれた日に始まった。見た目のいい人はいなかった(笑)。みんなエンジニアだからね。
ホームブリューには目標があった。コンピューター技術を、世の中の平均的な人の手が届くものにする。人々がコンピューターを買い、それでいろいろできるようにするというものだ。これは、僕がずっと前から目標にしてきたことでもある。
話題の中心はマイクロプロセッサー・コンピューターキット、アルテア。アルテアは、五年前、僕が設計していたミニコンピューターとほとんど同じものだった。全部、自分で設計すればいい。パーソナル・コンピューターのビジョンが頭に浮かんだ。
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後にアップルⅠとして知られるコンピューターが動くようなった。以前のコンピューターは、どれもライトとスイッチが並んだフロントパネルを使っていた。アップルⅠ以降のコンピューターはどれも、キーボードとスクリーンを持つようになる。
スティーブ・ジョブズに「プリント基板を作って売ったらいいんじゃないか」って提案された。必要なチップをプリント基板にはんだ付けするだけでコンピューターができるなら、数日でできる。難しいところはできているわけだからね。
そして、こう言われたことを、まるで昨日のことのように覚えている。「お金は損するかもしれないけど、自分の会社が持てるよ。自分の会社が持てる一生に一度のチャンスだ」。
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アップルⅡはコンピューターゲームをしたい人にも理想のコンピューターだった。BASICかマシン語、あるいは両方を使って簡単にゲームが作れるように、マニュアルやツールを提供した。アップルⅡの発売から数か月もしない内に、アップルⅡ用のゲームをカセットテープで売る企業が何十社も立ち上がった。
1980年12月、アップル社はナスダックに株式を公開した。それは史上最高の成功を収めたIPOだった。新聞も雑誌も、軒並みトップ記事として取り上げた。そのわずか1年後、僕らはIBMのパーソナル・コンピューター、IBM PCと正面衝突することになる。
1981年ごろ、コンピューターは急に世の中のいたるところで話題に上るようになった。突然、いろんな人が、コンピューターがあれば生活がよくなるんじゃないか、仕事の効率が上がるんじゃないかって言い始めた。
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アップルⅢはハードウェアに問題を抱えていた。しかも深刻な問題を。お店に届いて、数回は立ち上がるかもしれないけど、それでクラッシュしちゃうんだ。全然立ち上がらないこともある。アップルⅢ発売から2~3カ月、あっちのお店もこっちのお店も同じような経験をした。動かないって次々返品になる。
そんなわけで、アップルⅡは、もうあと三年ほど、世界で一番売れたコンピューターとしての座を守ることになる。1983年には、ついにコンピュターとして初めて累計販売台数が100万台の大台に乗ったほどだ。
アップルⅢは、マーケティング部門主導の委員会形式で開発された。僕がやりたいのは、気の合った仲間だけの小さなグループで、小さな会社を始めること。新しいアイデアを生み出し、それを形にすること。あのころ、アップルというアイデアは、もう新しいものではなくなっていた。
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世の中の大半の人、出会う人全員と言ってもいいほど多くの人が、白か黒かという考え方しかできない。そんな風にしか考えられないから、大半の人は、新しいアイデア、画期的な新製品とか新機能といったものを理解できない。
みんな、そのとき常識とされている見方しかしない。こういう人たちに足をひっぱられちゃダメだ。これは先入観とか、偏見とも言えるもの、発明というものと決定的に対立するものなんだ。
何か新しいもの、世界を変えるものを作るには、みんなが捉われている制約の外側で、みんながそんなもんだと思っている人工的な限界の外で考えなくちゃいけない。誰も考えつかなかったものを作りたいなら、そうする必要がある。
発明家であると同時にアーティストでもあるような、そういう珍しいタイプのエンジニアだと君が思うなら、僕からアドバイスがある。それはちょっと、と思うかもしれないけど、「一人でやれ」だ。委員会なんかが画期的なものを生み出せるわけがない。
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1980年ごろ、スティーブ・ジョブズや数人のアップル社員とゼロックスのパロアルト研究所に行った。そこで、始めて本物のビデオディスプレイを見た。アイコンとメニューでプログラムをコントロールするグラフィカルユーザーインターフェース、GUIを見た。
見た瞬間に思ったよ。これが本当のインターフェースだって。疑問の余地なんかなかった。未来にむけた一方通行のドアみたいなものだった。あれから25年以上たった今、どのコンピューターもあの形で動くようになった
世界は発明家を必要としている。自分はどういうものを設計したいのか、作りあげたいのか、夜、自分一人でじっと考え、考え、考え続ける。それだけのことをする価値はある。絶対にある。本当だ。