怒りのブレークスルー(中村修二)

『怒りのブレークスルー』 中村修二 2001年4月 ホーム社
 
 
 

1/7
徳島市内に「かちどき橋」という交差点があります。その交差点に設置された信号機を私は三十分ほども飽かずに眺めていました。1994年10月下旬のことです。それは、赤青黄三色の光源をLEDにした新式の信号機だったのです。
 

人工的に作られた鉱物、つまり自然界にない石が光るというLED(発光ダイオード)の基本原理が発見されたのは、二十世紀の初めでした。炭化珪素という物質に電流を流したとき、発光する現象が観察されたのです。
 

私たちはいつのまにか、この小さな発光体に囲まれてくらしていますが、実は長い間、致命的な「欠点」がありました。それは、高輝度つまり強い光を発する青い鮮やかな光を放つLEDがなかったのです。
 

私は徳島県阿南市にある日亜化学工業株式会社という小さな会社に勤める研究員でした。青色LED研究を初めてから5年後の93年12月ついに青色LEDの実用製品化へこぎつけました。窒化ガリウムを使った世界発のブレークスルー(革新的飛躍)でした
 
 
 
 

2
私は日亜化学での十年間で製品化に三つ成功していました。ガリウム燐とガリウム砒素、そして赤外および赤色LEDです。LEDは4年で製品化にこぎつけました。ひとりで、4年でLEDを製品化することなど世界で誰も出来なかったでしょう。
 

ガリウム燐やガリウム砒素もLEDも「これをやれば売れる」と会社が命令してきたものです。ほとんどひとりでやった製品化で、開発コストは微々たるものですが、会社の古参からは「中村は金を無駄使いして売れない製品ばかり作る」と、十年間文句を言われ続けました。
 

研究者が直接の利潤で会社に貢献するためには、新技術を開発した特許使用料くらいしかないのですが、会社は原則として特許申請を禁じていました。論文発表や学会への出席も基本的には禁止されて、業界でも学会でも私の存在は無いに等しいものでした。
 

会社の命令でやってきたけれど結局ダメだった。ならば、会社の命令には従わず、自分の好きなことをすればいいのではないか。「青色LEDをやりたいんですが」社長(小川信雄会長)に直訴しました。意外なことに「あ、そうか。やりたいか。ほな、やれ」と簡単にOKがでました。
 
 
 
 

3
セレン化亜鉛と窒化ガリウムのどちらの素材か、MBEとMOCVDのどちらの方法か。方法はMOCVDを選びました。まず技術を自分のものにし素材はそれから決める。きちんと段階を踏み、しっかり準備をしてからでないと、先へは進めないのです。
 

私はMOCVDを勉強するため、米国のフロリダ大学へ1年間短期留学させてもらいました。大学には基礎的なことを学ばないまま、米国まで留学に来ているドクターがほとんどでした。ごく簡単な実験に失敗して「できない、できない」と騒いでいる。アホか、と思いました。
 

20年前は日本人が米国で技術や学問を学び卒業していった。そして今は韓国人や中国人が来ている。やる気のある人間には、惜しげもなく知識を分け与えてくれる米国。それに比べ、日本のなんと閉鎖的なことか。米国の懐の広さを実感しました。
 

素材は世界中の科学者が見捨てた窒化ガリウムを選びました。「常識は疑え。人の書いた論文は読むな」と自らにいい聞かせてやってきました。私は自分に「競合他社が実現できない、まったく独自のやり方で製品化しなければならない」という厳しいルールを与えました。
 
 
 
 

4
留学から帰国し、会社に戻ってしばらくすると米国で発注したMOCVD装置が届きました。高さ約2メートル、幅4メートル、奥行き1メートルの巨大なものです。どこから購入したかは秘密。装置の値段は2億円。日亜化学の半導体部門としては大出血の設備投資でした。
 

装置を調整し、窒化ガリウムの結晶薄膜を作ろうとしましたがダメでした。市販の装置で簡単にできれば、誰も苦労はしません。装置を一から組み立て直しです。この作業にこれまで10年間で蓄積した技術がとても役にたちました。
 

大手半導体メーカーの研究者たちは、装置の改造を外注しているはずです。改造を外注すれば、納期は長くて半年、早くて三カ月。一つのアイデアを試すのに三カ月も待っているペースになる。私の場合はこれが一日とか二日のスパンでした。
 

実験して失敗し家へ帰って考え、そのアイデアを翌日また装置へ反映させる。こうした実験と失敗を1年近く繰り返し、たどりついたのが二つの吹き出し口を使ったツーフロー方式でした。今から考えると、このツーフローMOCVD装置の開発自体が最大のブレークスルーでした。
 
 
 
 

5
実験結果はかんばしくないものでしたが、そのときの私の中には、ある種の余裕、成功への期待のようなものが生まれていました。その余裕と希望の根拠は「孤独と集中」です。「孤独と集中」は私の「成功パターン」なのです。
 

次第に会社も愛想をつかし、開発費も出なくなる代わりに口出しもしなくなります。頻繁に実験を見にきた同僚も飽きてきます。さらに時がたつと、誰も来なくなって会社からも無視され、私は一人で集中して研究を続けることができました。 
 

いつものように出勤して、窒化ガリウムの結晶薄膜を成長させます。昨日の失敗をもとに閃いたアイデアを試したかったのです。結晶薄膜を取りだし5ミリ角に切り測定器のなかに入れホール移動度を測ります。数値を見て驚いた。200。「おっ、すごい」思わず声がでました。
 
 
 
 

6
これまでに作られた世界最高の膜の数値は90。それより約100も多いのです。私が生まれて初めて突破した世界一の壁。ツーフローMOCVD装置というブレークスルーで達成した数値です。これがすべてのブレークスルーの基礎でした。
 

科学というのは、自然の姿、実態を、人間にわかりやすく翻訳するための便利な道具のようなものです。物理学という道具をより具体的に使いこなすためには、実験や測定、分析など、実際にものごとと語り合うための手段が不可欠になるのです。
 

経験の蓄積とそこから生まれた知識や直感を駆使し、実験の結果を正しく見極め、それを「自己流」に深く考えていく。物事を考えるときは、この自己流がとても大事になってくる。他の方法を探しだし、できれば自己流のやり方を作り出す。これが学問ではないでしょうか。
 
 
 
 

7
93年12月。いよいよ高輝度青色LED、世界発の実用化の発表です。発表すると全国はおろか世界中からものすごい反響がありました。発表会が大盛況で終わり、会社で撮影会が始まった。隅へ追いやられた私に誰かが「あ、中村君も入ったら」と誘いました。もう苦笑いでした。
 

平等という名のもとに均一化された社会。個性を育てず、才能の芽をつみ、平均な人間を大量に生み出す教育。組織のために過労死寸前まで黙々と働き、疑問を抱かず、従順な忠誠心を求められるサラリーマン。こうしたものが日本には多すぎます。
 

私はもっともっと多くの才能が海外へ出ていけばいいと思っています。政治家に限らず、日本人には危機意識が希薄です。優秀な人材が流出していくのに焦燥感を抱き、国民の問題意識が刺激され、それが問題解決のきっかけになればいい。
 

私がこうして日本の悪口を言うのは、もちろん祖国によくなってほしいからです。いいことばかり言わず、ほんとうの姿をきちんと見ることができなければ、解決手段はでてきません。日本人の悪いところは、自分の欠点を直視しない点なのです。