ボブ・ディラン自伝(一章~三章)

『ボブ・ディラン自伝』 2005年7月 ソフトバンククリエィティブ(株)
 


 
 
 

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ビリー・ホリディ、テディ・ウィルソン、チャーリー・クリスチャン、キャブ・キャロウェイ、ベニー・グッドマン、カウント・ベイシー、ライオネル・ハンプトン。アメリカの日常生活の中にこだまする音楽を創造したアーテイストたち。すべてハモンドが世に出した人たちだ。
 

ジョン・ハモンドのオフィスに自分が座っているとは、夢を見ているとしか思えなかった。ハモンドがわたしにコロンビアと契約しろと言うなんてことが信じられるものか。すべてがつくりごとのように思えた。
 

「ありのままに言おう」ジョンはわたしに言った。「君は若くて才能がある。その才能に集中し、コントロールできれば、うまくやっていける。わたしは君をここに入れてレコードをつくる。それでどうなるか見てみようじゃないか」。
 
 
 
 

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ニューヨークへ来たのは、レコードで聞いていたシンガーを見るためだった。ヴァン・ロンクはギャスライト、その付近で最も有名で格が高く簡単には出演できないクラブ、に出ていた。わたしは彼のスタイルが好きだった。彼は当時のグリニッチビレッジの中心だった。
 

グリニッチヴィレッジにはもっとうまいミュージシャンが大勢いたが、わたしと同じことをしている者はいなかった。わたしにとってフォークソングは世界を探検する方法であり、それぞれのフォークソングがひとつの絵画、何より価値のある絵画だった。
 

グリニッチヴィレッジのパフォ-マーたちの多くは、歌ではなく自分自身を伝えようとしていた。わたしの場合は歌を伝えることが大切だった。
 
 
 
 

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わたしが歌うフォークソングには気軽なところはない。親しみやすくもないし、心地よい甘さにあふれてもいない。商業性が欠如していると言ってもいい。それだけでなく、わたしのスタイルは型破りで、ラジオの枠組みの中で分類するのは難しかった。
 

わたし自身にとっても、歌は軽い娯楽ではなく、もっと重要なものだった。歌とは、異なる現実への認識、異なる国、自由で公平な国へ、導いてくれる道標だった。
 

子どものころわたしは本や作家に夢中になることはなかったが、物語は好きだった。それもフォークシンガーを知るまでのことだった。フォークシンガーの歌は、歌詞を何番かまで歌うだけなのに、一冊の本のようだった。
 
 
 
 

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子どものころバンドをつくると、いつもまだバンドを持っていないシンガーに横取りされた。バンドの形が完成に近づくと決まってそうなるように思えた。初めは、わたしより歌も楽器もうまくない連中が、どうしてバンドを奪っていけるのかがわからなかった。
 

わたしのバンドを奪った連中には、商工会議所や町議会や小売店協会のお偉方とのコネがあったのだ。こうした連中はどこに行っても、一般人と違うつながりを持っていた。それはものごとの根幹にかかわることであり、一部のものは不当に優遇され、ほかのものは搾取される。
 

わたしはいつも、わたしがただひとり信頼していた祖母に泣き言を言った。祖母はそれを自分のせいだと思うなと諭した。「あなたがどうやっても勝てない人たちがいるものなの。放っておきなさい、それが自然にすたれるのを待ちなさい」。
 

私の母方の祖母は気品にあふれた善良な人で、幸せとはどこかに向かう道の途中にあるのではない、と話してくれた。幸せは道そのものだと。
 
 
 
 

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変化が起こるとは感じていても、サム・クックの「チェンジ・イズ・ゴナ・カム」のように、それが頭ではわからないことがある。来るべきもののかすかな予兆があったとしても、それに気づかないこともある。しかし、そういうとき、身辺の出来事をきっかけにして世界が変わる。
 

フォークソングとは、完璧に把握するのがとても難しいものだ。フォークソングは人生の真実について歌うが、その人生自体にかなりの嘘が含まれる。しかもわたしたち自身がそれを望んでいる。そうでなかったら快適に生きられないのだ。
 

わたしだけのフォークソングをつくったほうがいいのかもしれないという考えが湧いてきた。その考えはわたしをはっとさせた。それまでは知っている場所を歩いている気でいたが、この時自分が初めての場所に来ているのに気がついた。
 
 
 
 

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数年前のニューポート・フォーク・フェスティヴァルでわたしはこう紹介された。「さあ、つぎは、彼を君たちにわたすよ。わかっているね。彼は君たちのものだ」。当時のわたしは、そのことばに不吉な予言が潜んでいるのに気がつかなった。昔も今もわたしは誰のものでもない。
 

ウッド・ストックからニューヨークへ移っても状況は改善されなかった。デモ隊がわたしたちの家をみつけ、家の前を往復して、出てきてわれわれを導け、世代の良心としての責任を果たせと要求したのだ。
 

デモ隊の首謀者たちが市の許可を得て、通りの通行を遮断し、わが家のまわりに柵をめぐらし、その前でデモ隊が騒いだこともある。わたしたちは近所中の嫌われものだった。
 

彼らの目には、わたしがカーニヴァルから、脅威なる世界という見世物小屋から来た人間のように映ったらしい。彼らはミイラの頭かジャングルに住む巨大ねずみを見るような目で、わたしを見ていた。
 
 
 
 

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狂ったように暑い夏のある日、わたしはザ・バンドのギター奏者、ロビー・ロバートソンと車に乗っていた。彼が「これから、どこへ持っていこうと思ってる?」と聞いてきた。「どこへって?何を?」わたしは聞きかえした。
 

「音楽シーンをどうするかってことさ」。音楽シーンだって!わたしは車の窓を全開にし、強い風を顔に当てて、彼のことばが頭から消えるのを待った。まるでふたりで音楽シーンをどうにかしようとしているみたいな言い方だ。
 

みんなが何を夢見ていたかはしらないが、わたしが夢見るのは九時から五時までのふつうの仕事。街路樹の並ぶ通りに立つ白い抗垣のある家、裏庭のピンクのバラだ。それがわたしの正直な夢だった。
 
 
 
 

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わたしはエルサレムに行き、嘆きの壁の前でヤムルカ帽をかぶって写真を撮った。この写真は瞬く間に世界中に送られ、一瞬のうちに新聞がわたしをユダヤ主義者に転向させた。少しうまくいったようだ。
 

帰ってくるとすぐに、おとなしくて万人受けするサウンドになるように心がけて、カントリーウエスタン調に聞こえるレコードを録音した。音楽雑誌は判断を迷っていた。わたしは声まで変えていた。みんなが頭を抱えていた。
 

レコード会社と組んで、音楽をやめて大学に行くという噂を流した。わたしが自分探しをしているといくつもの記事が掲載され、永遠の探索とやらをしている、心の痛みに苦しんでいるのだと。どれもわたしには好都合だった。
 

ハーマン・メルヴィルの『白鯨』以降の作品は、そのほとんどが知られないままになっている。メルヴィルは亡くなるころには、ほとんど世間から忘れられていた。批評家がわたしの作品を評価しなければ同じことが起こる。世間がわたしを忘れてくれる。