福翁自伝(福沢諭吉)

『福翁自伝』 福沢諭吉 講談社
 
 

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歴史は史記を始め前後漢書、晋書、五代史、元明史略というようなものを読み、ことに私は左伝が得意で、大概の書生は左伝十五巻のうち三、四巻でしまうのを私は全部通読、およそ十一たび読み返して、面白いところは暗記していた。
 

私は手先が器用で、物の工夫をするようなことが得意でした。畳針を買ってきて畳の表をつけ替え、またあるいは竹を割って桶の箍(たが)を入れるような仕事から、そのほか戸の破れ屋根の漏りを繕うまで当り前の仕事で、みな私が一人でしていました。
 

あるとき漢詩を読むうちに「怒色に顕さず」という一句を読んで、その時にハット思うて大いに自分で安心決定した事がある。「これはドウモ金言だ」と思い、終始忘れぬようにしてひとりこの教えを守り、誰が何といって褒めてくれても、決して喜ばぬ。また何と軽蔑されても決して怒らない。
 
 
 
 

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緒方の書生の楽しみを一言すれば、西洋日新の書を読むことは日本国中の人に出来ないことだ。貧乏をしても難渋をしても、粗衣粗食、一見みる影もない貧書生でありながら、智力思想の活発高尚なることは王侯貴人も眼下に見下すという気位であった。
 

当時緒方の書生は、十中の七、八、目的なしに苦学した者であるが、その目的のなかったのがかえって仕合せで、江戸の書生よりも勉強ができたのであろう。今日の書生にしても、学問を勉強すると同時に終始わが身の行く末ばかり考えているようでは、修行はできなかろう。
 

この数年、死物狂いになってオランダの書物を読むことを勉強した、その勉強したものが、今は何にもならない。洋学者として英語を知らなければとても何にも通ずることができない。この後は英語を読むより仕方ないと、ひとたびは落胆したが同時にまた新たに志を発した。
 
 
 
 

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蘭といい英というも等しく横文にして、その文法もほぼ相同じければ、蘭書読む力はおのずから英書にも適用して決して無益でない。水を泳ぐと木に登ると全く別のように考えたのは一時の迷いであったということを発見しました。
 

咸臨丸は万延元年の正月出帆、三十七日かかってサンフランシスコについた。航海中は毎日嵐だった。終始私は同船の人に戯れて「これは何の事はない。牢屋にはいって毎日毎夜大地震にあっていると思えばいいじゃないか」と笑っているくらいなことだった。
 

原書を調べ、ソレでわからないことだけをこの逗留中に調べておきたいと思って、これは相当な人だと思えばその人ついて調べ、聞くに従ってちょいちょいこういう風に(この時先生細長くして古々しき一小冊子を示す)記しておいて、日本へ帰ってなお原書を調べ記憶を綴り合わせて西洋事情というものが出来ました。
 
 
 
 
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私が小士族で上流に対しては小さくなっていなければならないけれど、以下の者に向かって自分が軽蔑されただけソレだけ軽蔑すれば、勘定の立つようなものだがソレが出来ない。それどころか私は下の方に向かって大変丁寧でした。これは私の発明ではなく私の父母ともにそういう風がありました。
 

長州藩が穏やかでない。幕府からの命令で中津藩からも兵を出す。ついては江戸に留学している学生10人、ソレを「出兵の御用だから帰れ」といって呼び還しに来た時も私は不承知だ。大事な留学生に帰って鉄砲を担げなんて、ソンな不似合なことをするには及ばぬ。一人も還さない。
 

江戸で御家人のことを旦那といい旗本のことを殿様という。ところが私は旗本になったが、自分で殿様なんて考えるわけもない。ある日知己の幕人が玄関にきて「殿様はいるか」「そんな人はいません」と下女と問答している。下女にわかるわけがない、家の中で聞いたことのない言葉だから。
 
 
 
 

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当時東京の取締りは邏卒(らそつ)とかいう名の、諸藩の兵士が鉄砲を担いで市中を巡廻するその有様は、まるで戦地に見える。政府もこれを西洋風にポリスの仕組みに改革しようと、概略でもよろしい、取り調べてくれぬか、取り調べさえ出来れば何か礼をするというように見える。
 

私は色々な原書を集めて警察法に関する部分を翻訳し、早々に差し出したところが、東京府はこの翻訳を種に市中の実際を斟酌し様々に工夫して、兵士の巡廻を廃し、改めて巡邏というものを組織、後にこれを巡査と改名し、東京市中に平和妥当の取締法ができました。
 

ソコデ東京府も私に義理が出来たようなわけで、東京府に頼んでいた屋敷地の一条もスラスラ行われ、三田の島原藩の屋敷を上地させて福沢に拝借と命令が下り、地所一万何千坪は拝借、建物六百何十坪は代価の六百何十円を治めて、いよいよ塾を移したのは明治4年の春でした。
 
 
 
 

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私の性質は人につき合いして愛憎のないつもりで、貴賤貧富、君子も小人も平等一様、芸妓に逢うても女郎を見ても塵も埃もこれを見て何とも思わぬから困ることもない。こいつはけがれた動物だ、同席出来ないなんて、妙な渋い顔色して内実プリプリ怒るというような事は決してない。
 

私は幼少の時から教育の世話をしてくれる者がないので、ロクに手習いをせず成長したから今でも書ができない。成長の後でも自分で手本を習うたらよさそうなものだが、その時は既に洋学の門に入って天下の儒者流を目の敵にして、儒者のすることなら一から十まで気に入らぬ。
 

洋学流の我々は正反対に出かけてやろうと、あたかも江戸の剣術全盛の時代に刀剣を売り払い、すきな居合もやめて知らぬ風をしていたような塩梅式に、儒者が詩を作ると言えばこっちは作らずにみせよう、奴らが書をするといえばこちらは書かずにみせようと、力みこんで手習いをしなかったのが生涯の失策。
 
 
 
 
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先年、長男次男が六年の間アメリカに行っていました。私は何か要用の時はもちろん、たとい用事がなくとも毎便必ず手紙をやらないことはない。六年の間、三百何十通という手紙を書きましたが、子ども両人も飛脚船の来るたびに必ず手紙をよこす。この事は両人出発の節堅く申しつけました。
 

「留学中手紙は毎便必ず必ず出せ、用がなければ用がないといってよこせ、また学問を勉強して半死半生の色の青い大学者になって帰って来るより、筋骨たくましき無学文盲なものになって帰って来い、その方がよほど悦ばしい」。
 

「かりそめにも無法な事をして勉強し過ぎるな。倹約はどこまでも倹約しろ、けれども健康にかかわるというほどの病気か何かの事につき、金次第でどうにもなるということならば思い切って金を使え、少しも構わぬから」。
 
 
 
 
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元来私が家におり世に処する法を一括して手短に申せば、すべての事の極端を想像して覚悟をきめ、マサカの時に狼狽せぬように、後悔せぬようにとばかり考えています。
 

慶応義塾を開いて何十年来さまざま変化は多い。時として生徒の減ることもあれば増えることもある。生徒ばかりでない、会計上からして教員の不足することもたびたびでしたが、私は少しも狼狽しない。生徒が散じれば散ずるままにしておけ、教員が出て行くなら行くままにして留めるな。
 

福沢諭吉は大塾を開いて天下の子弟を教えねばならぬと人に約束したことはない。塾の盛衰に気をもむような馬鹿はせぬと、腹の底に極端の覚悟をきめて塾を開いたその時から、なんどきでもこの塾を潰してしまうと終始考えているから、少しも怖いものはない。
 

私の流儀は仕事をするにも、朋友に交わるにも最初から棄身(すてみ)になって取ってかかり、たとい失敗しても苦しからずと浮世のことを軽く見ると同時に一身の独立を重んじ、人間万事、停滞せぬようにと心の養生をして参れば、世を渡るにさまでの困難もなく安気に今日まで消光(くら)して来ました。