日本人のためのイスラム原論(一章)

『日本人のためのイスラム原論』小室直樹 2002年3月 集英社
 


 
 
 

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今のアメリカとイスラムの戦いを「文明の衝突」などどと呼ぶ向きもあるが正鵠を射ていない。むしろ「宗教の衝突」いや、「一神教どうしの衝突」と呼ぶべきである。
 

イスラム教では宗教とは法である。では、法とは何か。法とは神との契約である。神との契約は宗教の戒律であり、社会の規範であり、国の法律である。この四つがまったく一致するのが宗教の理想であり、イスラム教はまさにその通りである。
 

「宗教が違っても人間はみな同じである」と思い込んでいるのが日本人である。「宗教が違えばエトス(行動様式)が変わる」という、世界の常識が、どうしても理解できない。何も考えないで、どこまでも日本流で押し通すから、世界の人々は面食らう。
 
 
 
 

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現代社会を理解しようと思えば、資本主義やデモクラシーの本質を知っていなければ話にならない。その意味においてイスラム教を知ることは現代世界を知るための糸口にもなるのである。筆者はあえて言う。全てのカギはイスラムにあり。イスラムがわかれば世界がわかる。
 

イスラムが分かれば、ユダヤ教もキリスト教も分かる。現代日本人が抱える最大の困難の一つは、キリスト教がわからないことである。西洋文明の基本にあるキリスト教を知らずして、世界、ことに欧米とのスムーズな交流は望むべくもない。
 

コーランの原著者はマホメットだと思っている人もいるだろう。だが、それは間違いだ。正確に言うならば、アッラーの教えを大天使ガブリエルが、マホメットに伝えた言葉をまとめたのがコーランである。
 
 
 
 

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キリスト教もイスラム教も、ともに唯一絶対の神を信仰する一神教である。しかも、マホメットに大天使ガブリエルが訪れたことでもわかるように、その信仰の基盤にはともに聖書がある。マリアに受胎告知したのも、この大天使である。
 

共通点が多いキリスト教とイスラム教だが、決定的に違うところが一つある。それは、規範(ノルム)の存在である。規範とは分かりやすく言ってしまえば「これをしろ」「あれをするな」という命令である。
 

キリスト教には、この規範がまったく存在しない。これに対してイスラム教は規範だらけ。この大きな違いに、我々は注目しなくてはならない。
 
 
 
 

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イスラム教の信者には、基本的な義務として「六信五行」が課せられる。読んで字のごとく、六つのことを信じ、五つの行いをなせ。これを守らなければ、イスラム教を信じたことにならないのである。
 

イスラム教徒は以下の六つを信仰しなければならない。すなわち神(アッラー)、天使(マラク)、啓典(キターブ)、預言者(ナビー)、来世(アーキラット)、天命(カダル)である。
 

イスラム教においては、信者はアッラーの存在を信じ、コーランの教えを信じているだけでは信者と見なされない。五つの宗教的義務を同時に果たして、初めてイスラム教の信者になれる。
 
 
 
 

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五行の第一は、信仰告白(シャハダ)。「アッラーの他に神なし。マホメットはその使徒である」と、絶えず口に出して唱えなければならない。信者はそれを心の中で信じていればいいのではない。その信仰をはっきり口にだして外面に表わさなければならない。
 

第二の義務は、礼拝(サラート)である。夜明け、正午、午後、日没、夜半の五回、メッカの方向に定められた手順に基づいて礼拝を行う。金曜日正午の礼拝はことに重要で、モスクに集まり、指導者に従って礼拝を行わなければならない。
 

第三は喜捨(ザカート)である。喜捨すなわち施しは、仏教の場合義務ではない。これに対して、イスラム教では喜捨は義務である。不正をすれば自分自身の来世に跳ね返ってくるから、正直に行わなければならないのだ。
 
 
 
 

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イスラム教徒の守るべき五つの義務で、注目してもらいたいのが第四の断食(ラマダン)と最後の巡礼(ハッジ)の義務である。イスラム教には「イスラム共同体」というべき独特の連帯がある。
 

「実際、ハッジに集まった人たちは、男性は綿の長いパイルのような布を一枚体に巻くだけ、女性はもう一枚使って、顔だけを出して頭から全身を覆う。だから、誰が金持ちなのか、あるいは大統領なのか、ひとりの市民なのか全く区別がつかない。
 

ここでは、そういう経済力の違いはもちろん、国籍の違い、肌の色の違い、そういう違いが一切問題にならない。そういう相違を超えて、みんなが一緒の同じ方向に向かって祈る。この体験は非常に大きな影響を個々人にもたらす」。『私のアラブ・私の日本(U・D・カーン・ユスフザイ)』
 

イスラム教が信者に断食という規範を与えた理由はさまざまあるのだが、その中でも最も重要な点は、同じ時期に全ての信者が断食をするということにある。苦しいのは自分だけではない、世界中のムスリムたちが自分と同じ苦しみに耐えていると感じることで、そこに強い連帯が生まれる。
 
 
 
 

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キリスト教はイエスが創始したものだが、その教えを完成させたのはパウロである。パウロによれば、人間はすべて神から与えられた原罪を持っている。つまり不完全な存在であり、かならず悪いことをしてしまう生き物なのである。
 

大事なのは、外面的な行為ではない。本当に大切なのは、神を信じ、イエスを信じ、自分の罪を自覚することにある。人間は信仰によってのみ救われる。この思想はイエスの中にもあったものだが、それを明快に説いたのはパウロなのである。
 

パウロ以前のキリスト教は、ユダヤ教の一分派、異端のように見られていた。しかし、パウロが規範を明確に否定し、原罪をその中心に据えた。このときをもって、キリスト教はユダヤ教と決別したのである。
 
 
 
 

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イスラムではアッラーを信じているだけではだめで、同時にその信仰を外面的行動に表わさなければならない。しかも、その外面的行動はコーランをはじめとするさまざまなイスラム法によって明快に規定されている。イスラムでは宗教の法がそのまま社会の法なのである。
 

これに対して、キリスト教においては外面的行動はいっさい問われない。心の中で神、すなわちキリストを信じてさえいれば、何をやってもかまわない。キリスト教とは「信仰のみ」の宗教なのである。
 

ところが、この「奇態な」宗教であるキリスト教はローマ帝国の迫害にも関わらず、ヨーロッパ世界に広がった。そして、あろうことか、このキリスト教を母胎にして近代ヨーロッパ文明が生まれ、今日の世界ができあがったのである。
 
 
 
 

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鎌倉時代、法然や親鸞は、「南無阿弥陀仏」と唱名するだけで誰でも成仏できる、修業も学問も必要ないと言った。日蓮は「南無妙法蓮華経」の題目を唱えればよいと説いた。成仏するにはこれだけで充分である、というわけである。
 

日本の仏教はまず、天台宗の元祖たる最澄が円戒(内面の信仰のみを問う)によって戒律を廃止した。その後、親鸞、日蓮が現れるに至って、ついに自力救済の可能性までもが否定された。
 

ここにおいて日本の仏教は、本来の仏教と完全に決別し、あたかもキリスト教にそっくりの宗教になった。