天皇と東大(立花隆)

『天皇と東大』大日本帝国の誕生 立花隆 2005年12月 文芸春秋
 


 
 
 

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訳がわからないことが起こり続けたあの戦争の時代を理解する鍵は、天皇にある。あの時代、日本人はほとんどの人が天皇狂いしていたのである。
 

ミッションスクールの先生で、キリスト教徒を標榜していた私の母は「あの頃、お父さんちょっとおかしかった。右翼になっていた」と述懐したことがある。日本社会全体が、どのように天皇狂いにするにいたったかが、この本の主題の一つである。
 

東京大学初代学長の加藤弘之が、天皇崇拝主義者たちを、はじめ「その見の陋劣(ろうれつ)なる、その説の野鄙(やひ)なる、実に笑うべきものというべし」とバカにしていたのに、天皇中心の伝統主義者たちの抗議を受けると、たちまち自説を引っ込め、自著を絶版にしてしまう。
 

ここから近代主義者の伝統主義者に対する敗北が始まった。
 
 
 
 

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一言でいうなら、現代日本は、大日本帝国の上に築かれた国家である。大日本帝国と現代日本の間は、とっくに切れているようで、実はまだ無数の糸でつながっている。
 

大日本帝国の死体はとっくの昔に朽ち果て分解して土に帰ってしまったようで、実は、その相当部分が現代日本の肉体の中に養分として再吸収され、再び構成部分となってしまっている。
 

これからの時代しばらくは、戦後日本の骨格をかたちづくっていたあらゆる制度が、政治経済制度はいうに及ばず、憲法から天皇制にいたるまで、全面的な見直し(あるいは再検討、再定義)が迫られる時代になりそうである。
 
 
 
 

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加藤弘之は国学者の国体論に痛打を浴びせる。

「国学者は『わが皇国は畏(かしこ)くも天照大御神の詔勅によりて天孫降臨したまいしより、万世一系の天皇臨御したもう御国なれば(略)天皇を敬戴(けいたい)し、天皇の御心をもって心とし、あえて朝命に違背すべからず』という。

わが邦(くに)の臣民、天皇を敬戴し朝命を遵奉するはもとより当然の義務なりといえども、天皇の御心をもって心せよとはなにごとぞや。(略)欧州にてかくのごとき卑屈心ある人民を称して心の奴隷という。

吾輩人民もまた、天皇と同じく人類なれば、おのおの一己の心を備え、自由の精神を備えるものなり。(略)人民おのおの自由の精神を備えてこそ、実際上の自由権をも握りうべく、したがいて国家も安寧を得、国力も盛況をいたす(略)」。
 

実際、その後の歴史の展開を見ると、ここにある国学者流の国体論をさらにファナティックにした議論に国民がとらわれてしまい、心の自由を失い、心の奴隷となってしまったとき、日本という国は衰頽(すいたい)どころか、事実上滅びたのである。
 
 
 
 

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日本の近代史、現代史の相当部分が「国体」の一語の持つ暴力性に振り回されてきた時代であったということは若い人たちにも知っておいてもらう必要がある。「国体」の暴力性を知ってもらうには、二・二六事件を起こした青年将校たちの蹶起(けっき)趣意書を読んでもらうとよい。
 

要するに、この蹶起趣意書は、まずはじめに日本の国体を神の国ととらえるところからはじめている。天皇統率の下、この神の国が一体となって発展していけば、ついには世界中の国が一つ屋根の下により集うようにして一体となる。そういう未来像まで含めて、日本の国体というわけだ。
 

この国体は世界でもっともすぐれたもので、これから世界に向けて大発展をとげようとしているのに、凶悪不逞の徒が沢山でてきて、この国体を私利私欲のもとづいて破壊しはじめた。それは怪しからんふるまいだから、全員殺して元の正しい国体に戻す、というのである。
 

この蹶起に対して(略)、陸軍当局も、叛乱軍の蹶起の主旨をポジティブに受け止めて、国体顕現の方向に向けて邁進するというのである。
 
 
 
 

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美濃部達吉の「天皇機関説」問題と、加藤弘之の「国体新論」問題は、問題の性質がほとんど同じである。加藤が好んで引いていたフリードリヒ二世の「自分は国家第一等の高官たるにすぎざるのみ」は、天皇機関説とほとんど発想が同じである。
 

美濃部はいくら排撃されても、毅然として自己の主張を貫き通そうとした。そして、自己の学説を改め、これまでの自分の主張は誤っていましたなどというのは、自分の学問的生命を放棄し、醜名を死後に残すことだとした。
 

しかし、加藤弘之がやったことは、自分の『国体新論』等の著作を「謬見妄説往々少なからず、為めに後進に甚だ害あるを覚え」と述べて、これをことごとく絶版に付しただけでなく、すでに世間に流布した書も「(略)決して余が今日の意見に合いするものと認めたまはざらんことを希望す」とまでいう新聞広告を出した。
 
 
 

元老院議官海江田信義は「『国体新論』排斥の建言書」を太政大臣(三条実美)、左右大臣(有栖川宮、岩倉具視)に提出した。海江田はこの建言書を書いただけでなく「加藤を刺殺しかねない勢いで膝詰談判をしたので、加藤も大いにあわてて自分で絶版にふした」のだという。
 

幕末、薩摩藩のテロ事件として最も有名なのは神奈川で起きた”生麦事件”である。無礼な英人商人を島津家家臣が一刀両断で斬殺し、それがもとで薩英戦争が起きた。あのときの英人商人斬殺者がこの海江田信義である。
 
 
 
 

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明治維新後、国家的歴史の編纂事業をするべく太政官正院に修史局が作られた。明治21年に、これを帝国大学文科大学に移管、これが東京大学史料編纂所のはじまりである。修史局の中心的存在、重野安繹、久米邦武らを中心に翌年国史科が創設された。
 

問題は、久米邦武が『太平記』批判につづけて『史学会雑誌』に書いた「神道は祭天の古俗」と題する論文をめぐって起きた。(略)神道とは宗教ではなく、ただ天を祭り、災いを追い払い、福をもたらすべくお祓いをするという古来の習俗である、という主張である。
 

(神道側の)攻撃のポイントはこの論文は、皇室と皇室の祖先を侮辱する不敬不忠の論文だということにあった。この主張により、問題はみるみる政治化し、文部省は久米を非職としたので、久米は自ら職を辞して早稲田大学に去り、重野は免職となった。
 
 
 
 

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いまから考えてみると、久米邦武事件は、大きな歴史の曲がり角だった。あのあたりから国家が学問を支配することがはじまり、日本の歴史学はねじ曲げられ、神話が歴史をおさえこみ、国民は子供のときから神話的国家観を頭に叩き込まれるようになった。
 

北朝鮮という国の異様な政治体制がさかんに報じられるが、明治時代後半から昭和時代前期までの日本は、あれ以上に異様な国だった。金正日はほとんど神格化されているとはいえ、まだ「将軍さま」であって神様ではない。
 

しかしかつての日本では、天皇は現人神とされ、神として礼拝されていたのである。国民は子供のときから、天皇は神の末裔であると教え込まれ、ほとんどの国民がそう信じ込んでいたのである。だから、あの戦争でも多くの兵士が(略)天皇のために惜しげもなく命を捧げたのである。
 
 
 
 

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たとえば、私が生まれた年である昭和15年の『小學國史尋常科用上巻』を開いてみる。まず「神勅」とうものがドーンと頭のページにのっている。神勅は、『日本書紀』にある言葉で天壌無窮(永久に不滅)の神勅と呼ばれている。
 

天照大神が自分の孫である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を地上に下らせる(天孫降臨)ときに、与えたとされることばで、お前の子孫がすっと豊葦原の瑞穂の国(日本のこと)を支配するのだぞという意味である。
 

文書記録上、天皇の支配権の根拠は『日本書紀』のこの記述しかない。大日本帝国憲法の第一条「大日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」の根拠がこれだということは、憲法を作った伊藤博文が明言している。