『自省録』 マルクス・アウレーリウス 神谷美恵子訳 1956年10月 岩波書店
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訳者序
プラトーンは哲学者の手に政治をゆだねることをもって理想としたが、この理想が歴史上ただ一回実現した例がある。それがマルクス・アウレーリウスの場合であった。
大ローマ帝国の皇帝という地位にあって多端な公務を忠実に果たしながら彼の心はつねに内に向かって沈潜し、哲学的思索を生命として生きていた。
組織だった哲学的研究や著述に従事する暇こそなかったけれども、折にふれ心にうかぶ感慨や思想や自省自戒の言葉などを断片的にギリシア語で書きとめておく習慣があった。それがこの『自省録』として伝わっている手記である。
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マクシムス(ストア派哲学者)からは、克己の精神と確固たる目的を持つこと。いろんな場合、たとえば病気の場合でさえも、きげんを良くしていること。優しいところと厳格なところがうまくまざり合った性質。目前の義務を苦にせず果たすこと(を教えられた)。
彼のいうことはそのまま彼の考えていることであり、彼のやることは悪意からではないと万人が信じたこと。驚かぬこと、臆さぬこと。決してあわてたり、しりごみしたり、とまどったり、落胆したり、作り笑いしたりせぬこと(を教えられた)。
慈善をなし、寛大であり、真実であること。修養して正しくなった人間、というよりはむしろ天性まがったことのできない人間、という印象を与えたこと。なんぴとも自分が彼に軽蔑されていると考える者もなければ、自分が彼より優れているとあえて考える者もなかったこと。
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人は田舎や海岸に引きこもる場所を求める。しかしこれはみなきわめて凡俗な考え方だ。というのは、君はいつでも好きなときに自分自身の中に引きこもることができるのである。実際、いかなる所といえども、自分自身の魂の中にまさる平和な閑寂な隠家を見出すことはできないであろう。
この場合、それをじいっとながめているとたちまち心が完全に安らかになってくるようなものを自分の内に持っていれば、なおさらのことである。そして私のいうこの安らかさとはよき秩序にほかならない。であるから絶えずこの隠家を自分に備えてやり、元気を回復せよ。
そして簡潔で本質的である信条を用意しておくがよい。そういう信条ならば、これに面と向かうや否やただちにあらゆる苦しみを消し去り、君がいままで接していたことにたいして、何の不服も抱かずにこれに戻って行けるようにして返してくれるだけの力は、充分持っているであろう。
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間もなく君は死んでしまう。それなのに君はまだ単純でもなく、平静でもなく、外的な事柄によって害を受けまいかという疑惑から解放されてもおらず、あらゆる人に対して善意をいだいているわけでもなく、知恵はただ正しいことをなすにありと考えることもしていないのだ。
絶えずつぎのことを心に思うこと。すなわちいかに多くの医者が何回となく眉をひそめて病人たちを診察し、そのあげく自分自身も死んでしまったことか。
またいかに多くの占星術者が他人の死をなにか大変なことのように予言し、いかに多くの哲学者たちが死や不死について際限もなく議論を交わし、いかに多くの将軍が多くの人間を殺し、いかに多くの暴君がまるで不死身でもあるかのように恐るべき傲慢をもって生と死の権力をふるい、そのあげく死んでしまったことか。
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明けがたに起きにくいときには、つぎの思いを念頭に用意しておくがよい。「人間のつとめを果たすために私は起きるのだ」。自分がそのために生まれ、そのためにこの世にきた役目をしに行くのを、まだぶつぶついっているのか。
それとも自分という人間は夜具の中にもぐりこんで身を温めているために創られたのか。「だってこのほうが心地よいもの」。では君は心地よい思いをするために生まれたのか。いったい全体君は物事を受身に経験するために生まれたのか。
小さな草木や小鳥や蟻や蜘蛛や蜜蜂までがおのがつとめにいそしみ、それぞれ自己の分を果たして宇宙の秩序を形つくっているのを見ないのか。しかるに君は人間のつとめをするのがいやなのか。自然にかなった君の仕事を果たすために馳せ参じないのか。
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私は形相因(魂)と物質から成っている。これらのいずれも消滅して無に帰してしまうことはない。また同様にいずれも無から生じたものではない。かように私のあらゆる部分はそれぞれ変化によって宇宙のある部分に配分され、つぎにそれが新たに宇宙のほかの部分に変えられる。
宇宙の中でもっとも優れたものを尊べ。それがすべてのものを利用し、すべてを支配しているのである。同様に君の内にあるもっとも優れたものを尊べ。それは前者と同じ性質のものである。なぜならほかのすべてのものを利用するそのものが君の内にもあり、君の一生はそれによって支配されているのである。
普遍的物質を把握せよ。そのごく小さな一部分が君なのだ。また普遍的な時を記憶せよ。そのごく短い、ほんの一瞬間が君に割り当てられているのだ。さらに運命を記憶せよ。そのどんな小さな部分が君であることか。
神々とともに生きること。神々とともに生きるものとは神々にたいして自己の分に満足している魂を示し、ダイモーンの意のままになんでもおこなう者である。ダイモーンとはゼウス自身の一部であって、ゼウスが各人に主人として指導者として与えたものである。これは各人の叡智と理性にほかならない。
7
競技場においてある相手が我々に爪で裂傷を負わせ、頭でひどくぶつかってきた。しかし我々は抗議を申込みもしなければ気を悪くもしないし、その後も相手が我々にたいして悪事をくわだてているなどと疑ったりしない。
もっとも我々は彼にたいして警戒はしているが、それは敵としてではなく、また彼にたいして疑惑をいだいているわけでもなく、好意を持ちつつ彼を避けるのである。我々は人生のほかの部面においても同じように行動すべきである。
我々とともに競技をしているともいうべき人たちにたいして、多くのことを大目に見てあげようではないか。なぜなら私の言ったように、人を疑ったり憎んだりせずに避けることは可能なのだから。
8
君がなにか外的な理由で苦しむとすれば、君を悩ますのはそのこと自体ではなくて、それに関する君の判断なのだ。ところがその判断は君の考え一つでたちまち抹消してしまうことができる。
また君を苦しめるものがなにか君自身の心の持ちようの中にあるものならば、自分の考え方を正すのを誰が妨げよう。同様に、もし君が自分に健全だと思われる行動を取らないために苦しんでいるとすれば、そんなに苦しむ代りになぜいっそその行動をとらないのだ。
しかし打ち勝ち難い障碍物が横たわっている」それなら苦しむな、その行動を取らないのは君のせいではないのだから。「けれどそれをしないでは生きていく甲斐がない」それならば人生から去っていけ。
自分のしたいことをやりとげて死ぬ者のように善意にみちた心を持って、また同時に障碍物にたいしてもおだやかな気持ちをいだいて去っていけ。
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指導理性とは自ら覚醒し、方向を転じ、欲するがままに自己を形成し、あらゆる出来事をして自己の欲するがままの様相をとらしむることのできるものである。
アジア、ヨーロッパは宇宙の片隅。すべての大洋は宇宙の中の一滴。アトースの山は宇宙の中の小さな土塊(つちくれ)。現在の時はことごとく永遠の中の一点。あらゆるものは小さく、変わりやすく、消滅しつつある。
万物はかしこから来る。すなわち宇宙の指導理性からあるいは直接これに動かされて来り、あるいは因果関係に従って来る。したがって獅子が口を開けたところや、毒薬や、とげや泥のごとくすべての有害なものは、かの尊ぶべきもの、美しきものの結果にすぎないのである。
ゆえにこれらは君の敬うものとは別のものだと考えてはいけない。あらゆるものの源泉を考えよ。