『幸之助論』 ジョン・P・コッター 2008年4月 ダイヤモンド社
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松下幸之助は、1917年に自立して事業を始めた時、所持金は100円、学校教育は四年しか受けておらず、何の縁故も持たず、おまけに家庭的な精神的外傷も抱えていた。この時期の幸之助は販売を重視し、きわめて実践的だった。
単に魅力的な商品を売るのではなく、客にとって利益となる商品を売ること。紙一枚でも無駄にすれば、それだけ価格は高くなる。品切れは不注意によるものである。もしこのようなことが起こったら、客に謝罪し、住所を尋ねてすぐに商品をお届けしますと告げること。
ある意味で彼はまったくの凡人だった。彼の若い頃を知っている人で将来大物になると予想した人はいなかったに違いない。それにも関わらず彼はとても凡人とは思えない人物に成長した。彼の物語を理解する鍵は、成長することに対する途方もない意欲にある。
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松下幸之助が1917年(大正6)に事業を始めた時、彼が持っていたのは大阪電燈の五カ月分の給料に相当する100円の貯金と、四人の補佐役だけだった。四人とは妻のむめの、大阪電灯時代の同僚で友人の林、森田、そしてむめのの14歳の弟、井植歳男だった。
最初の年で失敗してしまう製造業には、往々にして製品企画に失敗があるとか、資金繰りがうまくいかないとか、流通の障害に出会うなどの原因がある。幸之助の事業にはこれら三つの要素が全て絡み合っていた。
どんなに努力してみても、幸之助は自分の起こした事業の問題を解決することはできなかった。販売店を開拓しようとしたが、なかなか現状を打開することができない。他の新製品を考えてもみたが、成功にはほど遠かった。この新事業の試みはばかげたことではないのか。
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松下電器の四番目の製品は、新考案の「二灯用差込プラグ」だった。一般家庭では各部屋に差込口が一つだけのプラグを取り付けていたので、このプラグは人気が出た。この新製品はそれまでの三つの製品よりも売り上げを伸ばした。
松下電器の最初の10年を特徴づける原型が創業1年目にすでに確立されつつあった。新製品は競合製品を改良したもので、市価より安い価格で売り出し、長時間労働や極度の節約によって経常経費を抑え低いコストを保つ。純資産を目減りさせない創造的な方法で融資を受ける。従業員を家族の一員として遇する、柔軟性と迅速さと新製品開発に重点をおく。
幸之助は初期の成功によって満足したり、野心が減退したりするどころか、かえって意欲をかき立てられたようである。成功は自分が正しい道を歩んでいる証拠であり、失敗は人生で味あわなければならない不可避の試練であると受け止めていた。
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1927年(昭和2)に発売された新製品は「ナショナル」ランプと命名され、のちにこの商標名は「GE」や「Coke」(コカ・コーラ)と同じように世界中に知れ渡ることになった。
松下電器はこの製品の無料見本一万個を卸問屋や販売店に配った。この戦略は当時としては異例だった。一般にこれほど多くの試供品を配り、卸問屋と提携して大がかりな販売促進キャンペーンを展開する企業はなかった。商標名もまれであった。
ほぼ同時期、松下は電器アイロンの市場を開拓し始めていた。当時100社ほどの企業がこの種の製品を少量生産していたが、師範学校を卒業した教師の平均年収が324円という時代に、アイロンは4円から5円だった。現在の教師の年収を500万円とした場合、アイロンの価格は6万4千円に相当する。
日本全体で月に一万台も売れていない当時、松下電器は月に一万台の生産に踏み切った。「アイロンの売れ行きは頭打ちになっているのを確信していました」とのちに幸之助は語っている。「というのも、価格を低くできる大量生産に向けて、決定的な一歩を踏む出すのをどの企業もためらっていたからです」。
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1929年(昭和4)10月29日、アメリカの証券市場が暴落した。当時、不景気に対処するにあたって、工場労働者を販売に配置換えするという例は前代未聞だった。
「今から生産を半分に切り詰める。しかし一人も解雇してはならない。労働者を解雇して支出を減らすのではなく、工場での労働時間を半日にして減らす。そして、同じ賃金を払うが休日は一切なくし、従業員には全員で力を合わせて在庫を売ってもらおう」。
1930年代に入り、経済がなおも低迷を続けると、数千の日本企業が減産体勢に入り、余計な製品を生産するのをやめ、従業員を解雇した。松下電器の経営はそれとは全く逆だった。ラジオ分野に進出し、ランプと乾電池の生産を増強した。
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幸之助は講演や著書の中で、経済情勢が厳しい時ほど会社に幸いしたと繰り返し語っている。彼は自分の幼年期の経験から、逆境によって人は強くなると信じていた。「労働者は一人前として信頼されるようになるには、多くの試練と訓練を甘受するべきである」。
あえてリスクに挑戦する道を選んで事業を拡大し、大きな市場シェアを占めた。常に取引相手を意識し、販売店と消費者の双方に注意を向けていた。従業員には多くを期待し、その代わり彼らを尊いものとして扱った。
柔軟性と迅速さを尊重し、長い準備期間や膨大な開発予算を敬遠し、製品と事業のすべてが採算に合うことを要求した。発明は他社に任せ、自分たちはより安く、より良い製品を作り、それを賢明な販売戦略で売ったのである。
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1932年、松下電器はわずか15年で従業員1100人、年商300万円、特許数280、10カ所の工場を数えるまでに成長した。幸之助は大胆な提言「真使命宣言」を行う。「産業人の使命は貧困の克服にある。社会全体を貧しさから救って、富をもたらすことにある」。
松下電器の場合、大仰な文体に現実味を帯びさせた力は、紋切り型の話術に基ずくものではなかった。そうではなく、模範となることで示すリーダーシップが秘訣だった。幸之助自身が使命と経営理念を深く信じて行動するようになった。
松下電気の将来のビジョンは従業員を鼓舞した。それは、彼の人生と過去の苦難に意味を与える使命でもある。自分の成功に対する罪悪感から解放してくれる宿命であり(略)人として、経営者として、リーダーとして自らを鼓舞するような天職の自覚でもあった。
幸之助は自分の個性と信念を主張した。その結果、松下電器の中にあってただ一人、際立って目立つ存在となった。そういう彼を変わった性格で理解に苦しむと感じた社員もいる。しかし、ほとんどの社員は幸之助の理想に感銘を受け、情熱的で献身的な彼の指導に従った。