『ミック・ジャガー ワイルド・ライフ』 クリストファー・アンダーセン 岩木貴子/小川弘貴:訳 2013年4月 株式会社ヤマハミュージックメディア
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ミックは四人の女性に七人の子どもを産ませていた。もっとも、これが彼のエベレスト級の性的氷山の一角に過ぎないことは周知の事実だった。何度もドラッグで逮捕され、二度有罪になり、短期間ながら一度は収監すらされている。
ミックが昔から女王を愚弄し、とくに女王のことを繰り返しイギリスの「魔女の親玉」と呼んでいたのもまずかった。それに加えて革命を呼びかける癖もあった。一度などは「アナーキーこそが一筋の光だ。この世に私有財産てものが存在してはならない」。と言い放ったこともある。
そして今、ミックがナイト位を叙されるまさにその日の朝、女王はこっそりとキング・エドワード七世病院へ向かった。ついでに顔にできた癌性病変も取り除くことになった。女王は担当医師の一人に「バッキンガム宮殿であの男にナイトを授けるくらいなら、ここにいたほうがずっとましだわ」と漏らしていた。
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ミックと、同じブルース好きの友人ディック・テイラーは間もなく、似たような趣味の二人のクラスメイトとともに「リトル・ボーイ・ブルー・アンド・ザ・ブルーボーイズ」を結成した。リードヴォーカルはミックが担当したが、最初のころはブルースマンのように歌おうとして、ヒステリックに叫んでいるだけだった。
1961年12月(幼なじみだった)ミックとキースが通学の途中、ダートフォード駅でばったり出くわした。「すぐにどっちも気づいたよ」キースは言う。「俺がやつに、よう、と声をかけると、やつはどこへ行くんだと聞いてきた。やつはチャック・ベリーにリトル・ウォーター、マディ・ウォーターズなんかのレコードを持っていた」。
ベリーのアルバムはイギリスでは発売されておらず、ミックはシカゴのチェス・レコードに直接手紙でオーダーし、レコードは郵送で届いたばかりだった。「すぐに意気投合したかって?」キースは言う。「あいつはチャック・ベリーとマディ・ウォーターズを持っていたんだぜ、ぶっ飛ぶようなレコードを。もちろんすぐに仲良くなったさ」。
ブルー・ボーイズの面々と親交があったフィル・メイは言う。「あの頃はみんなずぶの素人って感じだったけど、それでもミックの個性は際立っていた。ブルースの歌詞に心をこめて、表情をつけることができた。ただ歌うだけじゃなく、演じることができたんだ」
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マネージャーのオールダムは、レノンとマッカートニーがタクシーを降りたところを捕まえて、ストーンズが次にレコーディングする曲が見つからなくて困っていると訴えた。この最強のソングライティングコンビはたまたま、ミックの粘っこいざらついた声にぴったりと思われる曲を書き上げたばかりだった。
ジョンとポールは、ストーンズがレコーディング中のスタジオに向かった。そして彼らと一緒に「彼氏になりたい」を通しでプレイした。最終的にブライアンのスライドギターが付け足され、ミックがいつもの悩ましい振り付けでその曲を歌い切った瞬間、ストーンズの2枚目のヒットシングルは完成した。
一週間後、ストーンズはその恩返しとばかりに、ビートルズのコンサートで前座をやりオーディエンスを熱狂させた。この頃はもう、ミックとレノンは親友になっていた。ミックはレノンのソングライティング能力に舌を巻き、レノンはミックの生々しい声と輪をかけて生々しいステージでの立ち振る舞いをうらやんだ。
ふたりのこうしたプライベートの付き合いがあったからこそ、二つのグループが二人三脚で「敵対するライバル」という幻想をつくり上げていくことも可能になった。
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ミックはかろうじて現実にしがみついている有様だった。外界から隔絶された仄暗いタウンハウスで、ミックとマリアンヌはハシシを吸い、LSDをきめ、セックスし、そして、着せ替えごっこで遊んだ。キースとブライアンはもう何年も、ガールフレンドたちと服を取り替えっこしていた。
マリアンヌはさらに、イギリス人は伝統的に同性愛を受け入れていて、そうした姿勢は基本的に「自己愛」から来ていると付け加える。「それって要は、誰かに愛されたいっていう強い欲望なの。相手が男だとか女だとかはたいして重要じゃない」。
ミックと同衾しているところを目撃された男性のひとりに、凄腕ミュージシャントリオ、クリームの若かりしエリック・クラプトンがいた。昨今のイメージからは想像できないが、1967年当時のクラプトンもまた、かなりユニセックスな風貌をしていた。
ミックの友人で、この頃ロンドンの音楽シーンを取材していたジャーナリスト、ヴィクター・ボクリスはミックの仲間の多くが似たような「バカ騒ぎ」にふけっていたと証言する。
「神聖なものなんかひとつもない。タブーはすべてぶっ壊せというのが当時のポリシーだった。バイセクシャルだからといって後ろ指を指されることもなかったのさ。ノーマルなロックスターも含めて、誰もが実験にいそしんでいたよ」。
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「グラムロック」と呼ばれた新しいサブジャンルを、これほど極限まで突き詰めたアーティストは、デヴィッド・ボウイのほかにいなかった。
ロンドン南部の労働者階級に育ち、ロッカーになることを夢見たデヴィッド・ジョーンズ(本名)は、お行儀のいいビートルズのポップの魅力とミック・ジャガーの衝撃度を組み合わせようとした。「ミック・ジャガーになりたいと夢見ていたよ」と彼は言う。
キースは、友人がなぜボウイに夢中になっているのか理解できなかった。「ホントのところ、ミックはTシャツとジーンズって恰好だってボウイの10倍もすごいパフォーマンスができるんだ。ミック・ジャガーがほかの人間になりたがる必要がどこにある?」
ボウイはミックが何年たっても観客に衝撃を与えられるその能力に感服していたのだ。それに、この大先輩の曲づくりの才能とビジネスの手腕も尊敬していた。「ミックはビジネスの天才だと思ってたの。みんなそう思ってたわ」とアンジー(ボウイの妻)が言う。
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1978年の終盤、プラザ・ホテルのストーンズのグルーピーの集団に新人が加わっていた。いつでもチューインガムをくちゃくちしている背の低い黒髪の二十歳はニューヨークのファッションデザイナー、ケヴィンと同じように一時期アルヴィン・エイリー舞踏団の下っ端ダンサーだった。
アニマル柄とレギンスが好きなこの若い女性はとても声が大きく、平気な顔で突然歌を歌いだすのだった。この新人グルーピーはミックにしか興味がなく、「自分のキャリアを手助けしてくれると思ってるんだ」とケヴィンはすぐに見破った。
どういうわけか、ミックはこの厚かましい新人が気に入り、数回彼女を自室に招いた。「彼女はワイルドだったから、それがよかったんだよ」とケヴィンは言う。それとも、彼女の名前に惹かれたのかもしれない。彼女はその名をマドンナといった。
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コロムビア・レコードの社長のイェトニコフはブルース・スプリングスティーンを育て上げ、そして何より、マイケル・ジャクソンの大傑作、1982年のアルバム『スリラー』を売った人物だ。ミックは計算高く狡猾で、押しの強いビジネスマンでもあり、エンタメ業界のどんなスーツ組にだって負けていなかった。
コロムビア・レコードとアルバムからどの曲をシングルカットするかの決定権をめぐってイェトニコフともめると、ミックは立ち上がった。「おまえなんかくそったれレーベルのデブの重役じゃないか!」と彼は怒鳴った。「一体おまえに何がわかるって言うんだ?」
午後三時にミックとイェトニコフは(当時)レコード史上最高額の契約を結んだ。ストーンズには2800万ドル、そして、バンド仲間は知らないが、ミックの最初のソロアルバム二枚も含まれていた。
後になってミックの別口の取引を知るとキースは激怒した。「やつの喉をかっきってやりたかったよ・・。ローリング・ストーンズの契約に便乗するなんてことは許されない。みんな裏切られたと感じてたよ。友情は一体どうなっちまったんだよ?」。
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エリック・クラプトンはミックに元妻のパティ・ボイド・ハリソンを追いかけまわされた苦い記憶があった。カーラ(後のサルコジ夫人)には手を出してくれるな、と友人に訴えた。クラプトンは懇願した。「あの子はやめてくれ。俺、彼女に恋をしてると思うんだ」
しかしその数日後、クラプトンによると「ミックとカーラは秘密の情事を始めた。カーラにデートの約束をすっぽかされることが続いたと思ったら、紹介してくれた友達から電話があって、カーラはミックと真剣な交際をしているというんだ」
クラプトンは失意の底に突き落とされた。「その年はずっと、寝ても覚めてもミックとカーラのことが頭から離れなかった。ストーンズのライブにゲスト出演したときはひどかった、彼女がバックステージのどこかにいるとわかっていたから」
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ミックの個人運転手を14年間勤めてきたバジャリーは言う。「ディナーに出かけて、それから二、三カ所、違うパーティをまわって、午前三時になってもまだ電話で誰かをつかまえようとしているんだ・・・」。
バジャリーは世界中でさまざまな仮名を使って(ミスター・アーチャーとデヴィッド・ジェームスが特にお気に入り)スイートルームの鍵を取りに行き、それからミックとその晩のお相手を通用口へと届ける、ということをしょっちゅうやっていた。
一晩しか泊まらないときでも、ミックは必ずレセプションに自分の必要なもののリストを伝えておいた。赤白二本ずつでワインを四本、さまざまなブランドのビール、ひきたてのジャワコーヒー、すべての部屋に新鮮な切り花、寝室の窓には光を遮る黒い印画紙を貼るようにと要求した。「俺は昔から眠りがとても浅いんだ」