『ジャック・ウェルチ わが経営(上)』 ジャック・ウェルチ ジョン・A・バーン 宮本喜一[訳] 2001年10月 日本経済新聞出版社
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CEOという仕事でなによりも重要なのは、75パーセント近くが人にかかわることで、その他のことは25パーセントにすぎないということだ。私は、世界でも有数の頭脳や想像力そして競争力を持つ人たちと働いてきた。GEには、私よりはるかに頭のいい人たちがたくさんいた。
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私のリーダーシップに何か特徴があるとすれば、つまり人間の持てる力を最大限に引き出すのが私のスタイルだとすれば、それは母のおかげだ。芯が強くて気が強く、あたたかくて気前がよかった母は、人を見る目があった。母の前でとても「ごまかし」はきかなかった。
母がどれだけ私に自信を植えつけてくれたか、子供のころはよくわからなかった。何十年も後になって、スポーツのチームメートと撮った写真を見て、ほとんどどれも、自分が一番背が低く、身体が細いのに気がついて驚いた。
小学生のころ、私はバスケットでガードをやっていたが、ほかのプレーヤーと比べると、身体の大きさは四分の三くらいしかなかった。ところが、私はそれを知らなかったし、そう感じてもいなかった。今日、昔の写真を見ると、あまりに小さい自分に笑ってしまう。
自分の身体の大きさを意識さえしなかったというのは、まったく不思議な話だ。母というのはありがたいものだ。母がそれだけの自信を私に与えてくれたのだ。自分がなりたいと思う、どんな人間にもなれる。母にそう言われ、私もそう信じてた。「一生懸命努力さえすれば」。母はよくそう言っていた。
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最初希望していたコロンビア大学やダートマス大学に入れず、競争が激しくない大学に入ったことは、結果として大正解になる。マサチューセッツ大学の学力水準のおかげで、簡単に目をつけられる学生になったのだ。
1957年に大学を卒業したが、私は化学工学の学位をとった二人の最優秀卒業生の一人だった。もしMITに行っていたら、群れの中に埋もれたまま終わったかもしれない。教授たちからは大学院に進むように強く勧められた。それで私は企業の誘いを断り、特別研究研員として迎えてくれるというイリノイ大学に行くことになる。
化学工学を学ぶということは、企業で仕事の経験を積むための最高のこやしになると今でも感じている。その講義や論文執筆、きわめて重要な教訓を教えてくれるからだ。つまり、さまざまな問題に対して決められた答えが存在しているわけではないという教訓だ。本当に大事なのは思考のプロセスだ。
1960年、イリノイ大学を後にするときには、自分が何を好きか、何をしたいのか、そしてそれと同じくらい重要なことだが、何がそれほど得意ではないのかが、はっきりわかっていた。それがわかったということは、超一流にはほど遠くても、自分はまずまずのスポーツマンであると自覚していることにやや似ている。
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私の強気な予想をも上回り、プラスチック部門の売上は三年もたたないうちに二倍以上に増えた。本社の権力者の中には、私のことでいらついている人もいた。その一人が本社の人事部長、ロイ・ジョンソンだった。何年かたったあとで、私はジョンソンが1971年7月に副会長のハーム・ワイス宛に書いたメモを見つけた。
「力量は認めるが、そのポストを与えるには通常以上のリスクが伴う。ジャックには長所もたくさんあるが、看過できない限界が数多くある。プラス面では、事業を成長させようとする強い意欲、天性の企業家の資質、想像力そして積極果敢な姿勢が認められる。生まれついての指導者、総卒者であり、技術的な力量の水準も高い」
「反面、傲慢なところがあり、批判に対しては特に感情的に反応し、事業の細かいところまで口を出し過ぎる。複雑な問題に取りくんだり解決しようとするとき、入念な下準備やスタッフの助言よりも、自分のひらめきに頼り過ぎる傾向がある。分をわきまえず、GEの活動に対して『反体制的』な態度をとるきらいがある」。
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会長になるまで、実にさまざまな経験をしてきたとはいえ、現実には口で言うほど自信があるわけではなかった。私を知っている人に言わせれば、自信満々、自意識過剰なほどで、決断力に富み、動きがすばやくたくましい男だと表現しただろう。内心は不安でいっぱいだった。
社員の中には誇らしげに、GEを、強力で荒波をものともせず堂々と進む「超大型タンカー」にたとえる者もいた。このたとえに感心したが、私はGEをタンカーよりも高速モーターボートのような企業にしたかった。動きが速く機敏で、しかもいきなり方向転換ができる。
GEが拡大を続けても、小さいことのメリットを忘れてはならない。順調な事業を不振の事業から切り離さなければならなかった。それぞれの市場でナンバーワンかナンバーツーの事業だけで勝負するGEにしよう。われわれは素早く行動し、どうしようもない官僚主義を排除しなければならなかった。
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サンノゼ(の原子力事業)で働いていた人たちは、その当時における最高の頭脳の持ち主だった。1950代から60年代にかけて大学院を卒業し原子力エネルギーの将来に全人生をかけている。その世代のビル・ゲイツたちであり、アメリカ人の生活と仕事のあり方を変えようと意気込んでいた。
私は1981年の春、この原子力事業を訪ねた。ここの経営チームはばら色の事業計画書を提出した。年に原子炉三基の新規受注を見込んでいるという。スリーマイル島の惨状(79年)は、ほんの一瞬の出来事だと考えていた。その考えは現実とかけ離れていた。
私はしばらく黙って聞いてから議論に割って入った。出席者にとっては爆弾だった。「ちょっと待った。年に三基の注文など取れるはずがないだろう。アメリカではもう原子炉の注文は一基もとれないと思う」。
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「設置済みの原子炉に、核燃料と保守サービスを提供するだけで事業が成り立つような方策を考えてほしい」。当時GEが設置、稼働していた原子炉は七二基。その安全性が電力会社や政府とって唯一最大の関心事だった。われわれには自分たちが設置した原子炉を安全に動かす続ける義務があり、そこにこそビジネスチャンスがあった。
原子力チームは原子炉建設の正社員を1980年の2410人から、1985年には160人まで削減、さらに原子炉のインフラの大部分を廃棄し、原発に対する世界の見方が変わる日に備え、先進的な原子炉の研究だけに特化した。
これは、サービスそのものが将来のGEにとって計り知れないほどの役割を果たす可能性のあることを、いち早く教えてくれた。この成功で、原子力事業全体の純利益は81年の1400万ドルから、82年には7800万ドルに、さらに83年には1億1600万ドルまで増加した。
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GEは健全な成長を続け、利益を上げている本流の大企業の中で、競争力の強化に乗り出した最初の企業だ。数年前、クライスラーが同じようにリストラをしてはいるものの、それは政府の救済措置というお膳立てがあり、破産回避に向けて苦闘していることも広く喧伝されていた。
GEの場合はには、何のお膳立てもない。業績は好調で競争力もあり、利益率も高くリストラなど必要ないと見られていた。1980年のGEに売上高は250億ドル、純利益は15億ドルで、フォーチュン500社中、利益率では第9位、売上高は第10位だった。
ところが、当時われわれは厳しい現実に直面していた。1980年、アメリカの景気は後退し、その一方でインフレが勢いを増していた。さらに日本企業が、円安と技術力を武器に、自動車から家電製品まで多くの主要製品で輸出攻勢をかけていた。
私が目指したのは、競争する意思のある社員にGEが世界最高の職を提供するという新しい契約だ。その契約を結んだ者に対しては、最高の研修や開発プログラムや、人間としても仕事の上でも成長する機会に恵まれた環境を用意する
たとえ「終身雇用」は約束できないにしても、「生涯働くことのできる能力」を社員が見つけられるよう、GEは最善を尽くすということだ。