『Alibaba アリババの野望』 王利芬 李翔 2015年3月 株式会社KADOKAWA
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彼(ジャック・マー)が英文翻訳の仕事をしていた時に、周りの多くの同僚や、退職した教員が家で暇を持て余しているのに気がついた。1992年、まだ大学で教鞭を執っていたマーは同僚と共に杭州で海博(ハイホー)翻訳社を設立した。海博は英語の hope のあて字で、希望を意味していた。
「起業家として、大事なのはまず理想だ。僕は1995年にたまたまアメリカに行って、たまたまインターネットというものを見つけた。ただ、ぼくは理系じゃないし、技術のことは一切分らなかった。だけどそんなことは細かいことだよ。大事なのは、理想が何なのか、ということだけなんだ」。
後にジャック・マーは今日の企業は社会の問題を発見し解決する存在であるべきだと常々述べるようになる。あの時、彼はすでに(略)暇を持て余す同僚、翻訳を必要とする貿易会社の存在、この二つをを発見していたから解決を試みたのだ。
1992年という年が中国ビジネス史上とても重要な一年であることも注目する必要がある。この年の初めに鄧小平の南巡講話で中国人の改革開放に対する希望が刺激され、多くの人がその希望を胸に起業した。1992年に起業した人をまとめて「九二派」と表現した。
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ジャック・マーは中国政府の外交員として、債券取り立てで渡米した。その会社は詐欺集団であった。マーは軟禁されるが、協力するふりをして脱出した。「あれはハリウッド映画みたいな展開だった。ぼくがアメリカでマフィアに追われるところなんかは特にそうだったよ。ぼくのトランクは今もハリウッドにあるよ」
空港で帰国便のチケットを買うときになってマーは急に帰りたくなくなった。せっかく来たのだから、何もせずに帰るのはもったいないと思い直したのだ。マーは同僚の娘婿がシアトルでインターネットの会社を共同経営していることを思い出した。彼はシアトルに赴き、インターネットというものを目の当たりにする。
ジャック・マーは、インターネット上で実に多くの情報を手に入れられると知ったが、同時に中国に関する情報は全く見つけられないことに気づいた。それは、中国市場ではインターネットという業界は空白だということを意味していた。
帰国して一週間後、彼は、妻の張瑛と中国初の商用サイト「中国イエローページ」を興した。
「本当のところ、やろうと思った最大の理由はインターネットを信じていたからではなくてね。何にしてもやってみるだけで、それだけで勝ちだと思ったんだよ。最初からやらなかったら、いつまで経っても同じで、新しい展開はやってこないよ」。
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「理想と現実を照らし合わせて、これも足りない、あれも足りない、さてどうしよう?と困ってしまう企業家はいっぱいいる。だけどぼくは、企業家はそういう足りないものを創リ出せるようならなければいけないと思う。
何もかもそろっていれば、とっくに違う人がやってるさ。誰もがこれはいいチャンスだ、条件もそろっている、と思っているような場合、それはチャンスでも何でもないんだ」。
1999年、中国のインターネットはアテンションエコノミーで溢れかえっていた、あらゆるインターネット企業が、人々の注意と関心を引きつけなければ資金を獲得できないと、躍起になってPR活動を繰り広げていた。そうした中で、アリババだけはその波に乗らず静寂を守っていた。
「ぼくたちは世間に背を向け、やるべきことに没頭した。1999年に杭州に戻ると、ぼくたちは相談して、六カ月のあいだ自分たちからは宣伝しないことに決めた。まずはがむしゃらにがんばって、サイトを完成させよう、とね」。こうした状況下で、マーと彼のチームはアリババを設立したのだ。
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蔡崇信は米国イェール大学法科大学院の修士課程を卒業し、ニューヨークで4年の弁護士経験をした後にスウェーデンの投資会社インベスターABのベンチャーキャピタル部門でアジア責任者を務め、アジアにおける投資業務を行っていた。彼は年棒100万ドルにものぼる仕事を辞め、月給わずか500元のアリババでジャック・マーと働くことにしたのだ。
蔡崇信の登場により、アリババは正式に会社運営を開始できるようになった。さらに、法律と財務に精通し、国際慣例さえも熟知している彼の存在は、アリババが大企業として取引するのを容易にし、ベンチャーキャピタルのアリババに対する信用度も引き上げた。
私(著者)もまた、起業後ずっと、こういう資本の仕組みを理解している人を求めていた。それはどのような人かと友人たちに聞かれた時、私は蔡崇信のような人だと答えた。すると、蔡崇信のような人物は探し求めてどうにかなるようなものではなく、天からの授かりものだ、全ては巡りあわせだ、と言われた。
蔡崇信は疑いようもなくアリババの中で最重要人物の一人である。上場前にアリババは四名の取締役の席をヤフーに一つ、ソフトバンクに一つ、残りはアリババに二つ残すものと取り決めていた。その二つはジャック・マーと蔡崇信のものだった。
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「当時インターネットビジネスは投資を比較的獲得しやすかった。お金のためにある程度のものを犠牲にする人もいたが、アリババは断じてそうならないよう努めた。投資家が僕たちを選択したのでなく、ぼくたちが投資家を選んだのだ。ぼくは38件もの投資を断った」。
「当時、国有企業の人々は、あれこれとぼくに質問してきた。今どんなことをしているのか、将来どんなことをするのか、などなど。それが終わると、ぼくが質問する番だ。『ではあなたたちがお金以外に私たちに何をもたらしてくれるのか』と聞く。もし答えられないようなら、その投資は断るってわけだ」。
ゴールドマンサックスやフィデリティ・キャピタルという投資家グループの顔ぶれを見て、メディアや一般の人々は「このメンツはすごい。彼らは短期的な視点でアリババを判断してはいないだろう」という印象を受けた。そうなれば、アリババの長期的発展に期待するというロジックになるのは当然だ。
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2000年10月、アリババは中国企業向けに「ゴルードサプライヤー」サービスを開始した。中小企業はゴルードサプライヤーのプラットフォーム上に商品情報と10枚までの画像を載せることができた。アリババはそれらを分類しディスクに保存し、それを持って海外の展示会に参加する。
ゴルードサプライヤーが作られたのは中国の輸出貿易会社の販路拡大を狙ってのことだ。そこでのアリババの役割は(海外バイヤーとの)販売チャネルかつ架け橋となることであり、オンライン、オフライン両方のサービスから契約成立を促進しようというものだ。
2002年3月からアリババドットコムは会員料をとりはじめた。2003年は1日の収入が100万元、2004年は1日の利益が100万元、そして2005年は1日の納税額が100万元を記録した。アリババは自転車操業の日々から解放され、黒字時代が幕を開けたのだ。
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「ボクたちアリババの使命は世の中の商売をより簡単にすることです。(略)ぼくたちが新たに商品を発表するときに真っ先に考慮するのは、それが商売に役立つかどうかです。アリペイ(電子決済サービス)を開設したのもそのためです」。
タオバオ(C2C)でアリペイ(電子決済)を利用するとアリペイは抵当保証のようなサービスを提供する。売り手に支払う代金はアリペイが一時預かり、買い手が商品を受けとり、間違いのないことを確認してから、支払いが完了するというシステムだ。
それは単なる決済システムというだけでく、詐欺を防ぐ信用プラットフォームでもあるのだ。
中国で最も著名な作家の一人である余華はコラムで「アリペイで税金を収めることができれば、人々は政府が提供するサービスに満足したときに納税するだろう」と冗談を言い、サッカーファンは「アリペイでチケットを買い、試合に満足すれば金を支払う」と冗談を言ったものだ。
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2006年に始まった「中国で勝て」はCCTV(中国中央テレビ)の経済チャネルによる全国放映のビジネスバラエティ番組で、私が制作したものである。2007年、2008年と計三年間放映され毎年最高六人の優秀者が選ばれ(順位に応じた資本金で)新設起業の経営が任される。
三年に渡って審査員を務めたジャック・マーは36人の候補者から12人に絞る選考を担当した三人の審査委員の一人だった。この課程は十日間かかるもので、毎日六時間はこれに費やしていた。
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私は、SOHO現代城(北京の総合商業施設)でマーに会い「中国で勝て」の審査委員をやってほしいと要請した。
改革開放から三十年たった現在はすでに自分の知識と絶えざる努力で成功した企業家たちがあらわれ、舞台が整ったと若者たちに伝えたいのだと言った。時間の経過と共に、この舞台に立った多くの若者が、起業で自分たちの人生を変えていく番組だ、と話した。
私がしゃべり終わると、すぐに彼は「あなたの考えに賛同します。その価値ある企画の実現のために、ぼくに何ができるでしょうか」と言った。私は「あなたの時間が大量に必要になります。全部で三シーズンやりたいです」と答えた。
彼は「問題ありません。自分が賛同する番組に協力したい」と言った。その後三シーズン、二年半の間、彼は風が吹こうが雨が降ろうが、決して遅刻したり早退したりしなかった。現場では社用によって撮影を遅らせてはならないと電話にも出なかった。