『JB論 ジェイムズ・ブラウン闘論集』 2013年9月 スペースシャワーブックス
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「ジェイムズ・ブラウンン関する少しの覚書」 ネルソン・ジョージ(編者)
20世紀はじめの数十年は、ジム・クロウ(人種隔離政策)の時代と呼ばれ、夢は封じ込められ、厳格な障壁が存在し、人種差別が制度として存在するのがアメリカの常識だった。ブラウンは、金のために踊る赤貧の黒人少年にすぎなかったのだが彼は、白いバリケードに正面からぶつかり、投獄もされた。
1960年代初頭、ブラウンは白人のエンターテイメント界とパラレルな世界に生きていた。彼は、黒人の間では伝説であり、白人の間では無名であった。黒人のマスコミは彼を畏敬の念を込め伝えていたが、1962年の『ライブ・アット・ジ・アポロ』の衝撃的な成功まで、白人のメディアのレーダーに彼が浮上することはなかった。
公民権運動の高まりとともにブラウンの名声は60年代中盤に一気に高まり、白人が黒人の経験を理解するよすがとなった。「ソウル」が黒いものならすべてを言い表す全能のキャッチフレーズになり、このエンターテイナーが「ソウル・ブラザー・ナンバーワン」に任命された。
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「ジェイムズ・ブラウン、心ゆくまで歌う」 筆者不明 1965年9月4日 シカゴ・デイリーディフェンダー紙
彼がショウビジネス界で一番の働き者である理由は二つある。「子供の頃、俺の家族はひどく貧しかった。貧乏暮らしをすると、決意が固くなるんだ」。二つ目の理由はこうだ。「俺は、人々を喜ばせようと努力している。かれらが欲しいものを与えようとしているのさ。それができなくなれば、俺は後進に道を譲るしかないだろう」。
ブラウンは、十年前と同じペースで、一年を通じ、毎晩ショウを行っている。「おそらく俺は、自分が演りたいショウや行きたい街を選べるのだろうが、俺は自分をそこまで大物だと思いたくない。見たいアーチストを選ぶのは観客だ。それが俺だというのなら、俺はショウをやるよ」。
持ち歌の作詞作曲と編曲の大半を自ら手掛けてきたブラウン。そのおかげで、彼は8年の間、誰よりも着実なセールスを上げている。「…ひとつ言っておこう。曲を”書かなきゃ”いけないヤツらのことは、気の毒に思うよ。自分がやることは、何でも”感じなきゃ”いけない」。
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「ジェイムズ・ブラウンとナイン・ノーブルズとの邂逅」 ロン・コートニー 1986年5月9日 ゴールドマイン誌
フィーリングのある音楽を聴く唯一の方法は、ブラックのR&B局にラジオのダイアルを合わせ、そこに留めておくことだ。そこではボビー・”ブルー”・ブランド、アイク・アンド・ティナ・ターナー、そして「ショウビジネス界で一番の働き者」と称されるジェイムズ・ブラウン・アンド・フェイマス・フレイムズを聴くことができたのだ。
ファッツ・ドミノやリトル・リチャードにも豪華なツアー・バンドがいたが、彼らのバンドは、スターの背後に立ち演奏しているだけだった。一方、ジェイムズ・ブラウンのオーケストラは、入念に演出されたショウの一部だった。
バンドはショウにしっかり取り込まれ、観衆に最大限の衝撃を与えるように構成されていた。ブラウンの動きはすべて計算されており、バンドと共に延々とリハーサルが繰り広げられた。そのため、ショウではすべてが極めて円滑に進行し、彼はまるでアドリブで動いているように見えた。
彼は、バンドと完璧に息が合うまで、ひとつのルーティンを一時間以上も練習していた。要求の激しい親分である彼は、バンド・メンバーを能力の限界まで追い詰め、ミスをした場合には、その場でクビにすると脅した。この種の精密さを極める訓練から、音楽業界で最高級のバンドとショウが生まれたのである。
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「ジェイムズ・ブラウンはアウト・オブ・サイト(すばらしい)」 ドゥーン・アーバス 1966年3月20日 ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙
私はずっと待っていた。詰まるところ、彼は大物だ。その人気は刻一刻とさらに高まっている。彼が忘れっぽいわけでも、身勝手なわけでもない。私を寒空の中で待たせることは、彼の社会的・職業的な力学にとって必要不可欠な要素なのだ。私は前庭にある鍛鉄のベンチに腰掛け、神秘的な石造りの丸屋根を見つめていた。
「ジェイムズと呼んでくれ」。彼は、ゆったりと満面の笑みを見せながら言った。キラリと光り、綺麗に並んだ彼の歯。黒い顔に、長方形の微笑が浮かんでいる。「飲み物はどうだい?」。彼は最初から私をファースト・ネームで呼んだ。
こうして彼は超然とした態度を取りつつも親密さをほのめかし、主導権を握ったのである。「飲み物はいらないか?何か飲まないか?おいおい、本当にいいのか?」彼は客を持てなす側に回った。こうして「彼が」会話を進め、「彼が」質問する側となったのだ。
短い着物のようなローブは、胸元が開いていた。彼が首にかけていたチェーンからぶら下がっていた銀色の何かが、彼の胸で輝いている。しかし、彼はそれが何であるかを言おうとはしなかった。まるで呪文のようだ。彼が言わないことで、それが何かを推測することも不可能となったのである。
プリーズ、プリーズ、プリーズ
お願いだから、行かないでくれ
こんなにも君を愛しているのだから
彼は苦悶に陶酔している。マイクロフォンの首を握りしめ、汗を滴らせている。(略)ざらついた声で、母音を強調しながら苦痛を叫んでいる。ボビーは彼を止めなければならない。このまま彼を苦しませておくわけにはいかない。ダニーも同じ気持ちだ。
二人は彼に歩み寄り、ダニーが倒れ込んだジェイムズの体に立派な紫のケープをかけた。二人はジェイムズを立たせると、彼の体をローブに包み込んだ。ボビーは音楽に合わせ、彼の背中を叩いている。二人はいまだ歌い続けるジェイムズを舞台の袖へと導いた。
しかし、彼は途中で足を止めた。彼は立ち止まると、それ以上動こうとはしなかった。彼は舞台を去りはしない。もっと歌いたいのだ。彼は駄々をこねる子供のように足を踏み鳴らした。ノー、ノー、ノー、ノー。テンポがどんどん速くなっていく。そして彼は、挑むようにケープをかなぐり捨てると、マイクに向かって大股で歩いた。
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「1968年1月・・・」 チャックD 1996年 『ファンク・パワー』のライナーノーツ
(スクールバスに乗っていた頃)俺たちはスタックスやモータウンの曲を歌っていたが、ジェイムズ・ブラウンの曲は歌えなかった。なぜなら、彼の曲を歌うということは自動的に「立ち上がる」ということを意味したからだ。俺たちは運転手や警官から「いい子で座ってろ」と言われていた。
1968年4月マーティン・ルーサー・キング牧師がメンフィスで暗殺された。学校は数日休みになり、我が家の白黒テレビに映る6時のニュースは全米で問題が起こるだろうと予測した。(略)ベトナム戦争はテレビにぼんやりと映っていたが、現実には叔父が徴兵の手紙を受け取っていた。
キング牧師の暗殺後、ジェイムズ・ブラウンの「セイ・イット・ラウド――アイム・ブラック・アンド・アイム・プラウド」がリリースされた。(略)ジェイムズ・ブラウンは、途方に暮れ、困惑したアメリカ人をたった一人で受け入れると、その音楽、言葉そして態度で彼らをまとめ上げた。
野球、キャンプ、ランチやバーベキューを楽しんだ暑い夏が終わると、「セイ・イット・ラウド――アイム・ブラック・アンド・アイム・プラウド」というフレーズで、俺は三年生になる準備、1969年を迎える準備、さらにはその後の人生を歩む準備ができた。俺たちはカラードからブラックとなり、クールな自分たちを新たに発見したのだった。
※チャックD (パブリック・エナミー)
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「ジェイムズ・ブラウンは、ソウルを売る」 メル・ジーグラー 1968年8月18日 マイアミ・ヘラルド紙
ソウル・ビジネス・ナンバー・ワンはジェイムズ・ブラウン・エンタープライゼズ(JBE)だ。同社はジョージア州にラジオ局(JBは若い頃ここで靴磨きをしていた)、もう一つのラジオ局、レコード制作会社、音楽出版社、巡回興行、さらには精選されたニューヨークの土地を所有している。
(公演が終わり)トレイラーの外では、警備員がミスターブラウンがゲストと会う予定のない旨を、ナッシュビルから来たディスク・ジョッキーに伝えていた。しかし、ブラウン自身が、このディスク・ジョッキーを楽屋に招いていた。なぜなら、ブラウンが無名だった頃、彼がコンサートの宣伝をしてくれたからだ。
現在ジェイムス・ブラウンは35歳になり、大物になった。彼は、エアコンのついたトレーラーの中におり、六人の助手が彼の身の回りの世話をしている。そして、彼の無名時代を知るディスク・ジョッキーは戸外に立ち、文句を言う妻と泣きわめく赤子にまといつく虫を払いのけていた。
午前三時半、ディスク・ジョッキーは待つだろう。公演は終わり、ベン・バート(マネージャー)は金の勘定をしている。そして、ジェイムズ・ブラウンは、ナッシュビルからやって来たディスク・ジョッキーのことをすっかり忘れていたのだった。
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1965年7月、私はジェイムズ・ブラウンにインタビューの約束を取り付けた。しかし、私が勤めていた局の先輩ディスク・ジョッキーは皆、伝説となっていたブラウンの傍若無人ぶりについて私に忠告した。そのため、インタビュー当日、私はホテルのスイートルームのドアを叩きながら、緊張のあまり震えていた。
1時間以内で、私はインタビューだけでなく、ブラウンに自分のラジオ番組向けのジングルも作ってもらった。私は驚いた。立場を逆転させ、ブラウンは私のファンになったのだ。彼の言葉で、私はこう確信するようになっていた。私は必ずや、業界で一番の大物ディスクジョッキーになると。
数年後、私はブラウンの下で働くこととなった。彼が最初に教えてくれたのは、友人作りの哲学だ。ディスク・ジョッキーと親しくなることは賄賂よりも効果的だ。ディスク・ジョッキーはレコードをかけるたびにレコードを宣伝してくれて、ショーのチケットも売ってくれている、というわけだ。
ビジネス面でのブラウンの「スタイル」は、私が彼の下で働き始めた最初の週で明らかになった。我々はボスが公演のない数日をオフィスで過ごすと知ると、視界に入るあらゆるものについて、塵を払い、拭き掃除をし、磨き上げた。秘書や代理人は素早く机を整頓した。彼が眉をひそめそうなものは、しまい込まれた。
(1970年)メンバー・チェンジから一ケ月も経たぬころ、私はヴァージニアでの公演を見ながら「ギヴ・イット・アップ・オア・ターン・イット・ア・ルース」のアレンジが大幅に変わっていることに気がついた。私はそれについてブラウンに尋ねた。「ああ、俺の新曲だ」と彼は言った。
新バンドとの初レコーディングで、予定されていた曲は一曲のみ。案の定、「ギヴ・イット・アップ」で聴かれたフレーズが入っていた。しかし曲のタイトルは変わり、「ゲット・アップ・アイ・フィール・ライク・ビーイング・ア・セックス・マシーン」になっていた。
ブラウンは歌い始めたが、ミスを犯すとレコーディングを止めた。二回目のテイクでは不思議な変化が起こった。我々は天性の音楽的才能が、通常の思考回路を飛び越え、見事なヴォーカリーズを生み出す瞬間を目撃したのだ。ブラウンは満面の笑みを浮かべた。
ブラウンは自身の音楽的「フォーミュラ」を変えることに成功した。メイシオのサックスはファンキーなピアノ・ソロに置き換えられ、ブラウンは相棒のボビー・バードとのコール・アンド・レスポンスを書き入れていた。
しかし、それ以上に意味を持っていたのは、アレンジだ。(ブーツィー、フェルプス)コリンズ兄弟とスタークスのポリリズムのみに焦点が当てられていたのだ。