現代語訳 学問のすすめ(1~10編)

現代語訳『学問のすすめ』(初編~10編) 福沢諭吉 齋藤孝(訳) 2009年2月 ちくま新書
 


 
 
 

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「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と言われている。つまり天が人を生み出すに当たっては、人はみな同じ権理(権利)を持ち、生まれによる身分の上下はなく、自由自在に、また互いに人の邪魔をしないで、それぞれが安楽にこの世をすごしていけるようにしてくれているということだ。
 

社会的地位が高く、重要であれば、自然とその家も富み、下の者から見れば到底手の届かない存在に見える。しかし、そのもともとを見ていくと、ただその人に学問の力があるかないかによって、そうした違いができただけであり、天が生まれつき定めた違いではない。
 

学問をするには、なすべきことを知ることが大事である。人が生まれたときは、何にも繋がれず縛られず、一人前の男は男、女は女として、自由であるけれども、ただ自由とだけ言って「分限」を知らなければ、わがまま放題になってしまう。
 

自由とわがままの境目というのは、他人の害となることをするかしないかにある。ある人がやりたい放題やるのは、他の人の悪い手本になって、やがては世の中の空気を乱してしまう。人の教育にも害になるものであるから、浪費したお金はその人のものであっても、その罪は許されないのだ。
 
 
 
 

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そもそも政府と人間の関係というのは、現実として社会的強者と弱者というような違いがあるだけであって、基本的人権に関してはまったく同等である。百姓は米を作って人を養い、町人は物を売買して世の中の便利の役に立つ。政府は法律をつくり、悪人を罰し、善人を守る。
 

それが政府の「商売」というものだ。この「商売」には莫大な費用がいるけれども、政府には米も金もない。百姓、町人から税金を出してもらって、その財政をまかなおうということで、政府と人民が取り決めたのだ。これが、政府と人民の約束[社会契約]である。
 

だから、人は平等の人権を持っているということを忘れてはいけない。これが人間の世界において最も大切なことである。「人はみな同じ権利を持ち」というのはこのことである。
 
 
 
 

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むかし鎖国の世に、旧幕府のように窮屈な政治をやっていた頃なら、人民が無気力でも、政治に差し支えがないどころか、かえって便がよかった。(略)だが、いま外国と交際していく時代となっては、これが大きな弊害となる。
 

例を挙げれば、田舎の商人が、おそるおそる外国と交易をしようと思って横浜などに出てくれば、まず外国人の体格がたくましいのを見て驚き、金を多く持っているのに驚き、商館が広大なのに驚き、蒸気船のスピードに驚き、すっかり肝をつぶしてしまう。
 

外国商人に近づいて取引をすることになっては、その駆け引きの鋭さに驚き、あるいは無理な理屈を言われることがあれば、ただ驚くだけでなく、その威力に縮み上がって、無理とは知りながら、大損を出す取引をしてしまい、大きな恥を受けることになる。
 

今の世に生まれて、いやしくも国を愛する気持ちがあるものは、政府、民間を問わず、まず自分自身が独立するようにつとめ、余力があったら他人の独立を助けるべきだ。父兄は子弟に独立を教え、教師は生徒に独立を教え、士農工商みなが独立して、国を守らなければならない。
 
 
 
 

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国の文明というのは、上の方、政府から起こるべきものではなく、下の方、人民から生まれるものでもない。必ずその中間から興って、庶民に向かうべきところを示し、政府と並び立ってはじめて成功を期待すべきものなのだ。
 

西洋諸国の歴史書を見て考えてみると、商売や工業のやり方で、政府が発明したものなど一つもない。(略)蒸気機関はワットの発明である。鉄道はスチーブンソンの工夫である。はじめて経済の法則を論じ、商売の法を一変させたのはアダム・スミスの功績である。
 

これらの大家たちは、いわゆる「ミッズル・カラッス(middle-class)中産階級」の人で、まさに国民の中くらいに位置して、知力で世の中を指揮した人たちである。(略)文明を行うのは、民間の人民であり、それを保護するのが政府である。
 

いまわが国において「中産階級」にいて、文明を率先して唱えて国の独立を維持すべき者としては、唯一学者たちがあるだけだが、この学者というものがその文明の精神が日に日に衰えているのをただ傍観しているのみで、真剣に心配する者がいないのは、実に嘆かわしいことであり、非常に残念なことだ。
 
 
 
 

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とはいっても、時勢が世の中を制することといったら、急流や台風のようだ。この勢いに対抗してしっかりと立っているのは、もちろん容易なことではない。強い勇気がなければ、知らず知らずのうちに、流され、なびかされ、ややもするとその足をも失う恐れがあるだろう。
 

そもそも勇気というものは、ただ読書して得られるものではない。読書は学問の技術であって、学問は物事をなすための技術にすぎない。実地で事に当たる経験をもたなければ、勇気は決してうまれない。
 

わが慶應義塾で、すでに技術としての学問をマスターしたものは、貧乏や苦労に耐えて、そこで得たものを実際の文明の事業で実行しなければならない。実行すべき分野は数えきれない。商売にはつとめなければならない、法律は論じなければならない。工業は興さなければならない。農業は勧めなければならない。
 

著述、翻訳、新聞の発行、およそ文明の事業は、ことごとくわが手に収めて、国民の先を行き、政府と助け合い、官の力と民間の力のバランスをとり、一国全体の力を増す。この力の薄弱な独立を、不動の基礎を持った独立へと移し変え、外国と争っても少しも譲ることはない。
 
 
 
 

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日本の歳入額を全国の人口で割ると一人当たり一円か二円だろう。年間わずか一円か二円を払って、政府の保護を受けて、泥棒や強盗の心配もなく、一人で旅行しても山賊に遭う恐れもなく、安穏とこの世を渡っていけるのは便利なことではないか。
 

世の中の様子を見ると、家に金を使うものもあり、ファッションやグルメに力を尽くすものもあり、ひどいのになると、酒や異性のために金を捨てて、財産を使い尽すものもいる。(税金は)道理において出すべきだけではなく、安い買い物でもあるから、あれこれ考えずに気持ちよく払うべし。
 

そもそも文明とは、人間の知恵や徳を進歩させ、人々が自分自身の主人となって、世間で交わり、お互いに害しあうこともなく、それぞれの権理が十分に実現され、社会全体の安全と繁栄を達することである。
 
 
 
 

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そもそも人間の性質というのは集まって住むのを好んで、決してひとりで孤立してはいられないものだ。広く他人と交際して、その交際が広くなればなるほど自身の幸福も大きくなるのを感じるものであって、これが人間社会が生まれた所以である。
 

むかしから、能力のある人間には、心身を労して世の中のために事をなす者が少なくなかった。いまこうした人物の心中を想像するに、彼らが衣食住が豊かなこと程度で満足する者には到底思えない。社会的な義務を重んじて、高い理想を持っていただろう。
 

いまの学生は、これらの人物より文明の遺産を受けて、まさしく進歩の最前線にいるのだから、その進むところに限界をつくってはいけない。いまより数十年後、後の文明の世では、いまわれわれが古人を尊敬するように、そのときの人たちがわれわれの恩恵を感謝するようになっていなくてはならない。
 
 
 
 

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むかしは、世の中の物事は古いしきたりに縛られて、志のある人間であっても、望みに値する目的がなかった。しかし、いまは違う。古い制限が一掃されてからは、まるで学者のために新世界が開かれたかのように、日本中で活躍の場にならないところはない。
 

農民となり、商人となり、学者となり、官吏となり、本を書き、新聞を出し、法律を講義し、芸術を学ぶことができる。工業も興せる。議院も開ける。しかも、この事業は、国内の仲間と争うものではない。その意味で戦う相手は外国人なのである。大きな望みがあり、目的もはっきりしているではないか。
 

以上のように考えれば、いまの学者は決して通常の学校教育程度で満足していてはいけない。志を高く持ち、学者の神髄に達し、独立して他人に頼ることなく、もし志を同じくする仲間がなければ、一人で日本を背負って立つくらいの意気込みをもって世の中に尽くさなくてはいけない。