現代語訳『学問のすすめ』(11編~17編) 福沢諭吉 齋藤孝(訳) 2009年2月 ちくま新書
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学問本来の趣旨は、ただ読書にあるのではない。精神の働きにある。この働きを活用して実施に移すには、さまざまな工夫が必要になる。「observation」とは物事を「観察」することである。「reasoning」とは物事の道理を「推理」して、自分の意見を立てることである。
すなわち、観察し、推理し、読書をして知見を持ち、議論をすることで知見を交換し、本を書き、演説することで、その知見を広める手段とするのだ。この中には自分ひとりだけでできることもあるけれども、議論や演説は他人を必要とする。演説会の意義が、これらのことによってもわかる。
いま、我が国民において最も心配なことは、その見識が低いことである。これを指導して高いレベルに持っていくのは、もちろん、学者の責任である。なのに学問の道において、議論や演説が大切なのは明らかであるにもかかわらず、今日、これを実行する者がいないのはどうしたことか。
人間のやることは、内側でのことと外に対してやることの二つの面がある。内側にあるものは淵のように深く、人と接しては飛ぶ鳥のように活発であり、学問上の緻密さは内に向かって限りなく、学問活用の広がりは外に向かって際限がない。こうなって初めて学者と言えるのだ。
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人間の見識、品格を高めるためにはどうしたらいいのだろうか。その要点は、物事のようすを比較して、上を目指し、決して自己満足しないようにすることである。ようすを比較するというのは、こちらの全体とあちらの全体を並べて、いいところと悪いところをあまさず見なくてはならない。
古今の人物を広く見て、誰と比較して誰の仕事くらいのことをすれば満足できるか、と考えれば、どうしても高いレベルの人物と比較せざるを得なくなるだろう。もしくは、自分に長所が一つあっても、向こうには長所が二つあるならば、自分の一つの長所だけで満足する理屈はない。
まして、後から来るものは、先人たちを超えるのが決まりごとなのだから、古人に前例がなく比較する相手がいない場合などなおさらである。現代の人間としての責任は重大なのだ。ただきちんと生活してしっかり勉強するくらいのことで、生涯の仕事と言えるだろうか、考えの足りないこと、はなはだしい。
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およそ人間には、いろいろな欠点があるものだが、人間社会において最大の害があるのが「怨望(ねたんだり、うらむこと)」である。欲張り・ケチ・贅沢・誹謗の類はどれも大きな欠点だけれども、よくよく見てみれば、その本質のところでは別に悪いものではない。
ただ一つ、そもそもの働きにおいて完全に欠点一色で、どんな場面でもどんな方向性でも、欠点中の欠点といえるのは怨望である。怨望は、働き方が陰険で進んで何かをなすこともない。他人のようすを見て自分に不平をいだき、自分のことを反省もせず他人に多くを求める。
自分に不足があれば、それを改善して満足するという方法をとらずに、かえって他人を不幸におとしいれて、それによって自分と他人を同じようにする。『論語』に「これを悪(にく)んではその死を欲す」という言葉があるが、まさにこのことだ。
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人間が世の中を渡っていくようすを見てみると、自分で思っているよりも案外悪いことをし、自分で思っているよりも案外愚かなことをし、自分で目指しているよりも案外成功しないものである。
こうした不都合は、いまの世の中珍しくない。その原因はと言えば、ただ流れに身を任せて生きているだけで、かつて自分自身の有様を反省したこともなく「生まれていままで自分は何事をなしたか、いまは何事をなしているか、今後は何事をなすべきか」と、自身の点検をしなかったことによる。
だから言う。商売の状態を明らかにして、今後の見通しを立てるものは、帳簿の決算だ。自分自身の有様を明らかにして、今後の方針を立てるものは、知性と徳と仕事の棚卸しなのだ。
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信じることには偽りが多く、疑うことには真理が多い。試しに見てみよ。世間の愚か者たちは、人の言葉を信じ、本に書いてあることを信じ、俗説を信じ、ウワサ話を信じ、神仏を信じ、占いを信じる。病気で熱が出ているのに医者にかからず念仏するのは、阿弥陀如来を信じているからである。
文明の進歩は、この世にある形ある物についても、あるいは形のない社会的な物事についても、その働きの元を探求して、真実を発見することによる。西洋諸国の人民が、今日の文明に達した原因もすべて「疑うこと」というこの一点から出ているのだ。
奴隷制度の正しさを疑って、後の世界にひどい害悪の元を残さなかったのはトーマス・クラークソンのおかげだ。ローマ・カトリックの迷信を疑って宗教改革を行ったのはマルチン・ルターである。フランスの人民は貴族が栄える世の中に疑いを起こして革命をはじめ、アメリカの人民はイギリスの法律を疑い、独立を成し遂げた。
物事を軽々しく信じていけないのならば、またこれを軽々しく疑うのもいけない。信じる、疑うということについては、取捨選択のための判断力が必要なのだ。学問というのは、この判断力を確立するためにあるのではないだろうか。
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今日、世間のありさまを見ると、傲慢無礼で嫌われている人がいる。人に勝つことばかり考えて嫌われている人がいる。相手に多くを求めすぎて嫌われる人がいる。人の悪口を言って嫌われる人がいる。どれもみな、他人と自分とを比較する基準を誤っているのだ。
自分の高尚な考えを基準にして、これを他人の動きと照らし合わせる。自分勝手な理想像を基準にし、それで人に嫌われる原因を作って、最後には自分から他人を避けるようになり、孤独で苦しい状態におちいるのだ。
非常に大きなことからとても細かいことまで、他人の働きに口を出そうとするならば、試しに自分をその働きの立場において、そこで反省してみなければいけない。あるいは、職業がまったく違ってその立場になれない、というのであれば、その働きの難しさと重要さを考えればよい。
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富豪と評判のある商人の勘定場に飛び込んで、帳簿の精算をすれば、差し引きして数百数千円が不足するところもあるだろう。この不足は、財産でいえばマイナスであるから、無一文の乞食よりもずっと下になるのに、世の中の人が、この商人を乞食のように低く見ないのは、この商人に人望があるからだ。
人望とは実際の力量で得られるものではもとよりないし、また財産が多くあるからといって得られるものでもない。ただ、その人の活発な知性の働きと、正直な心という徳をもって、次第に獲得していくものなのだ。
栄誉というものが、本当に虚名の極致であって、薬屋の看板のようなものであれば、これを遠ざけて避けるべきだというのは、言うまでもない。しかし、また、一方から見れば、この人間社会のことは、すべて虚構でなっているわけではない。
人の知性や人間性は、花の咲く樹のようなもので、栄誉や人望は咲いた花のようなものだ。樹が育って花が開くのを、なぜことさら避ける必要があるだろう。栄誉の性質を調べもせずにこれを捨て去るのは、花を切り払って樹木のありかを隠すようなものだ。
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人と交際しようと思えば、ただ旧友との付き合いを忘れないだけでなく、さらに新しい友人を求めなくてはならない。人間はお互いに接していないと、その思いを十分に伝え合えない。思いを伝えなければ、その人物を知りようがない。
交際の範囲を広くするコツは、関心をさまざまに持ち、あれこれをやってひとところに偏らず、多方面で人と接することにある。ある者は学問をもって、ある者は商売によって交際する。ある者は書画の友があり、ある者は囲碁・将棋の友がいる。友人を持つ手段にならないものはない。
腕相撲と学問とでは、世界が違って、お互いに付き合えないようだけども、世界の土地は広く、人間の交際はさまざまだから、四、五匹の鮒が井戸の中ですごしているというのとはちょっと趣が違う。人間のくせに、人間を毛嫌いするのはよろしくない。