『ジャズの本』ラングストン・ヒューズ 木島始(訳) 1998年4月 株式会社晶文社 (『ジャズ』(1960年 飯塚書店)に四篇を加え1998年に出版されたものです)
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ルイ・アームストロングは、1900年7月4日に生まれました。子供のルイがニューオリンズの街角で小金欲しさに歌い始めたのは、十歳になるかならぬかのころでした。十二歳にならないうちに、ルイは、ハッピイ、リトル・マック、ジョージーの三人と、四重奏団をつくりました。
ルイは彼の葉巻煙草(の箱で作ったギター)の弦を引き、ハッピィは洗濯だらいのベースを鳴らし、リトル・マックはハーモニカを吹き、ジョージーは洗濯板を陽気にがちゃがちゃなでている。この四人組がなんともすばらしい拍子をつくりだしたので、近所の子供たちが歌いまた踊りだしました。
譜に書かれた音楽はあったためしがありません。旋律はおぼえているものか、あるいは演奏しながらつくってゆくかするのです。そして演奏者たちにとって、それは遊びで、まったく楽しむためのものなのです。ジャズは、みんが楽しむために演奏したことからはじまっています。
※ルイ・アームストロングの誕生日は、これまで1900年7月4日とされていた。しかし最近の調べで、実際の誕生日は1901年8月4日と判明したのである。これは出生地ニューオリンズの教会に残されていた資料に基くものだが、本人はこの世を去るまで1900年生まれと思っていた。(wikiより)
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アフリカの太鼓(ドラム)
何かを打つこと、叩くこと、なでることは、いつも音楽演奏の一部分をなしてきました--しばしばそれだけで音楽ができあがったものです--というのは打つこと、いいかえればリズムは、旋律(メロディ)とおなじほど重要なもの、ときにはいっそう重要なものだからです。
何世紀ものあいだ西アフリカの住人たちは、リズムにあわせて仕事をしてきています。リズムにあわせて舟をこぎ、リズムにあわせて粉を搗(つ)き、リズムにあわせて家をたてます。それで、仕事につかれたら、かれらはリズムにあわせて踊るのです。
およそ四百年ほど昔にアフリカ人たちが「新世界」へはじめてやってきたとき、この驚くべきリズムをかれらはもってきました。他の国々の音楽とアメリカのジャズを区別する主なことのひとつは、ジャズにはじつにリズムの種類がたくさんあることです。
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なつかしのニュー・オーリーンズ
150年むかし、なつかしのニュー・オーリーンズにコンゴー広場と呼ばれる公共広場がありました。(略)日曜日になると仕事をしなくてもよいアフリカ奴隷たちが太鼓をもってきてかれらのいわゆるバムブーラ(ブードゥーの原始的な太鼓にあわせる舞踊)を歌いかつ踊りました。
アメリカのジャズの歴史について書く人はほとんど、ジャズがニュー・オーリーンズではじまったと信じています。ニュー・オーリーンズで楽団やオーケストラはコンゴー広場の太鼓のリズムのいくつかをまねたのです。ジャズはひとびとを「動き」たくさせるのです。
ニュー・オーリーンズは、アメリカの都市になる前にフランスの都市(フランス領)でありスペインの都市(スペイン領)でありました。ですから奴隷の太鼓のほかに、おおくの異なった種類の音楽、通俗音楽も古典音楽もこの都市は知っていました。
ニュー・オーリーンズからメンフィスやセント・ルイスへとミシシッピー河をのぼったりくだったりした外輪式の汽船は、小さな楽団をのせていました。ですから、ニュー・オーリーンズのこの元気のよい太鼓で拍子をとる行進音楽はアメリカの中心部一帯に広がりはじめていました。
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ブルース
ああ お天道さまは あついし 日が長くて いやんなる・・
それからかれはうまくその最初にあわせられるような他のことを考えつくことができないときには、同じ行をくりかえしました、
んだ お天道さまは あついし 日が長くて いやんなる・・
しかし、そのときまでにかれは新しく思いついたのがありました、
んだから おいらは この いやんなる歌 歌ってるんだ。
何かこういったぐあいなのが、最初のブルースが生まれたときには起こっていたにちがいありません。というのは、そんな具合なのがブルースの型なのです。
ブルースはほとんどいつも悲しい歌です、失業したり、破産したり、故郷から遠くはなれたり、だれか愛しているひとがはなれていってしまって寂しかったり、というようなことを歌っています。
きみが ぼくの 笑っているのを 見るときにゃ
ぼくは 泣きだすまいと 笑ってるんだ
ジャズはブルースからいくつかのものをとりいれました。ジャズはしばしばブルースの12小節の型を使います。そして「ブルー・ノート」を使います。このブルー・ノートというのは「外れた音符(オフ・ノート)」で、ほんの少し音程が下がり通常の音符の間に入ります。それらはときどきフラットの記号で示されますが、楽譜にあらわすのは不可能なのです。
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ラグタイム
アメリカでつくられた最初のピアノは、1770年代の後期にできました。けれども長いあいだピアノはとても高価なものだったのです。それからおよそ百年もあとになっていくつかのピアノ製造会社がつくられ、やっとおおくのアメリカの家庭がピアノをもつようになりました。
新たに奴隷制度から解放された黒人たちは、多くのばあい音楽を学ぶためのお金をもっていませんでした。しかしたくさんの黒人たちが耳でききおぼえで演奏することを学びました。その演奏者たちは、かれらの太鼓、かれらの仕事の歌、かれらのケイク・ウォーク、かれらの霊歌のリズムをピアノに移しました。
1800年代の後期までにかれらは「ラグタイム」と呼ばれることとなる音楽をつくりだしていました。これはピアノで一曲をとても活気のあるシンコペートされたやりかたで演奏することを意味しました、文字どおりにいうと「メロディーをばらばらにする」という意味なのです。
この愉快なラグは、たいへん人気となり幾百というそのような他の曲が書かれ出版されました。当時はレコードが広く用いられる以前でしたので、ピアノ演奏は、紙テープに保存され、機械的に自動ピアノで演奏されました。無数のラグタイムのテープが紙の楽譜とどうように売られました。
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歌うトランぺット
六十年、あるいはそれ以上まえ、ニュー・オーリーンズでは、大きくあざやかに力強くトランペットがひびいたのです。当時、リンカーン公園でダンスがあるんだということをひとびとに知らせようと思うと、偉大な管楽器吹奏者のひとり、バディ・ボールデンが音楽堂にたってかれのかがやくトランペットで一発ラグふうのブルースをぶっぱなしたものでした。
ラジオやテレビのはるか前の時代には、拳闘の試合や遊覧旅行やダンスの発起人たちは、その宣伝にニュー・オーリーンズの街を馬車にのって走りまわる楽団を雇いました。ときどきある楽団の馬車がもうひとつの馬車に出くわしたものです。
するとどちらも演奏をどちらが上手くやれるかたしかめてみようと思ったものでした。しばしかれらはその馬車で、街角の交通をとめてしまいました。かれらはこういう競技を「カッティング競技(コンテスト)」と呼びました。のちにニューヨークのハーレムのジャズ・ピアニストたちによって借りられた名前の元です。
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ルイ・アームストロングの話をすると、ほとんどアメリカのオーケストラル・ジャズの全部の物語ができあがります。彼の生涯はニュー・オーリーンズにおけるジャズ発生の当初から、ボストンからボンベイ、パデュカからパリ、メンフィスからメルボルンにいたるまで、いたるところでジャズが楽団で演奏される現在にまでひろがりのびるのです。
多くの白人の演奏者たちは、黒人演奏者がその演奏にいれたリズムを好みました。そこでかれらはジェリー・ロール・モートンのようなピアノ演奏家や、バディ・ボールデンやキング・オリヴァーのようなトランペット演奏者に耳をかたむけて、そのリズムを学ぼうと試みました。
1915年にトム・ブラウン(白人トランペット奏者)は、ある白人楽団をニュー・オーリーンズからシカゴへつれていきました。そして初めて”jazz”という言葉が-当時は jass と綴られていましたが-これらの人たちの演奏した種類の音楽と結びついてあらわれることになったのです。
ルイ・アームストロングは1921年に彼が河船(の楽団)をはなれたとき、パパ・セレスティンズ・タキシード・バンドの一員となりました。その楽団はニュー・オーリーンズのあらゆる最良の舞踏会で演奏をしました。
数カ月後に偉大なキング・オリヴァーが、ルイはオリヴァーを子供のころからたいそう尊敬していたのですが、そのオリヴァーがシカゴのリンカーン公園にあるかれの楽団の一員になるようにとルイを呼びにきました。
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ともかく、ルイ・アームストロングがシカゴに着いたころまでに、ひとびとはあらゆるディキシーランド・バンドをジャズ・バンドと呼んでいました。そしてそれらの楽団の新しい音楽はジャズと呼ばれました。ただルイがその音楽をジャズと呼ばなかっただけのことです。
ルイにとっては、もちろんそれは新しい音楽ではありませんでした。子供のころ行進楽団でバディ・ボールデンが演奏するのをきいた音楽、ジェリー・ロールのラグタイム、かれのお母さんが鼻唄で聞かせてくれたブル-ス、かれの祖母が口ずさんでくれた霊歌、このすべてがまた、ルイが河船の上で演奏したようなやり方で織りあわされているのです。
ルイがシカゴの大群衆のまえに立ってかれのトランペットを吹くとき、かれの音楽はこれらの記憶から出てきたのです。そしてその音楽はそれまでにだれの聞いたどんな他の音楽ともちがったものでした。それは愉快でした。それはジャズでした。