『ソウル・マイニング』 ダニエル・ラノワ 2013年3月 みすず書房
1
アレンジやアイディアを紙に随時記録しておくことは、私の作業プロセスの一部になっている。「記録する/思い出す」というのは、つまり選択するということだ。地球は誰に対しても同じように回転しているが、人によって見えるものは異なる。
私は自分にとって重要だと思える小さなものを、覚えておくことに決めたのだ。これは私による神の理解と同じだ。小さなかけらが飛び去っていく。情報の分子がいつも飛び去っていく。これを見る人もいるし、見ない人もいる。神の瞬間はとても小さくきらめいているのかもしれない。
(それは)小さすぎてそれ一つだけではほとんど意味がないようなものだ。しかし、他の小さなきらめきも積み重ねていくと、形が生み出されはじめる。この形がきっかけとなって音や魂、夢が生起するのだ。
2
素晴らしいソニーのTC630。「サウンド・オン・サウンド」という機能が搭載されていた。これが私の秘密兵器となった。チェンネル1に録音したものを再生しながら、さらに歌ったり演奏したりして、チャンネル2にまとめて録音ができた。ミラクル!
技術上のマイナス点は私の友となった。音を移せば移すほど、最初に録音した音はこもった音になっていく。自分が録音するときは、このようなマイナス点を考慮した上でミックスの計画を立てた。演奏を重ねていくとき、一番前に出したい情報を最後のレイヤーとして録音するのだ。
そして評判が広がり始めた。ラノワ兄弟は「サウンド」を作り上げたという評判だ。母の地下室で録音するために、人々があちこちからやってきた。私たちはさらに一歩進んで、アナログ盤制作のパッケージングサービスを提供した。スタジオでの録音二日間、ジャケットのデザイン、1000枚のレコードの自宅配送。私たちの小さなビジネスは人気が出はじめた。
3
何年か前、ブライアン・イーノはロンドンでタクシーに轢かれたことがあった。病院のベッドで寝ているとき、頭上のスピーカーからクラシックが流れていたが、クレッシェンドになったときだけ音が聞こえることに気づいた。それよりも音が小さいパッセージはほとんど無音になる。
このように盛り上がりがランダムにやってくることにイーノは魅了された。音楽が一定でないことが気にいったのだ。甘い香りを運ぶそよ風のように、消えたりまたやってきたりする。これがイーノの「アンビエントミュージック理論」の始まりだった。
1980年までに、イーノと私は定期的に協働作業をしていた。そして我々は継続してアンビエントの録音をしていた。イーノのところにアポロ宇宙計画のドキュメンタリーに音楽を付けるという依頼がきた。アンビエントミュージック制作者たちは今や、宇宙のための音楽を制作することになった。
4
カリフォルニア州のオックスナード市、パシフィックコースト・ハイウェイ沿いにあったメキシコ系映画館を借りたときには、これから何が始まるのか皆目わからなかった。昔から映画が好きだったのでこの「テアトロ」の看板に「貸します」のサインを見て、イチかバチかでスタジオを移転することにした。
テアトロがその後、ボブ・ディランの『タイム・アウト・オブ・マインド』の制作で重要な役割を果たすことになろうとは考えもしなかった。ビリー・ボブ・ソーントンの『スリング・ブレイド』のサウンド・トラックで作曲家にとって夢のような場所になろうとは、考えもしなかった。
『スリング・ブレイド』のコピーが送られてきた。ビリー・ボブが電話をかけてきて、この映画が気に入ったかどうか聞いてきた。彼自身や関係者がどれほどのコミットメントを注いできたかについて話し、わたしにも同じコミットメントを期待できるかと聞いてきた。私は「もちろん」と答えた。これで私はビリーのお抱え作曲家となった。
5
私が持っている商売人としての本能は、レコード制作の最初の時点ではまだ登場しない。おそらくこの部分が、レコード制作でソウルがある部分なのだ。私は全てが自然に解き明かされていくのに任せる。曲の選択も含めて、全てのアイディアが検討の対象となる。ノーということは決してない。
時間が経過していく中で、ある曲、あるいはレコード内のある部分が、そのグループ内での売れ線担当として自ら手を挙げるのだ。この時がきたならば、ドアが開かれる。プロダクトマネージャやラジオ番組担当、広報、サポートシステムの登場が許されるのだ。
みなさん、同じテーブルについてください。ということだ。アルバムのアイデンティティが発見され、ヒット曲候補に目星が付けられるところまで来たら、私はビジネス関係の人々に参加してもらうのが好きだ。彼らは私が寝ている間に、プロジェクトを継続していってくれるのだ。
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私の一枚めのレコード『アカディ』は、コーヒーマシンのところにボブ・ディランの亡霊がいるソニアットの家で完成された。私は自分のレコードを、ニューオリンズ三部作の第三段階だと考えている。『イエロー・ムーン』が最初、『オー・マー・シー』が二つ目、そして『アカディ』だ。
故郷から遠く離れることで、過去の物語を明確にできた。自分の音響に関してだいぶ自信がついていた。これは主にU2や、ピーター・ガブリエルとの、そしてイーノとの戦いから得られたものだ。しかし、ボブといっしょに過ごしたことが、自分自身の人生を見つめ直すきっかけになった。
私の母は、四人の子どもを車に押し込んで、父から離れるために500マイルも車を運転した。もちろん母は勇敢だが、私は父の観点からこの状況を見てみることにした。酒浸りのこの男は子どもたちを失うことになるだろう。しかしそれは、子どもたちへの愛を失うことにはならないのだ。
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ボブ・ディランの『タイム・アウト・オブ・マインド』の依頼を引き受けた理由の一つとして、自分の音響を、ボブにしか書くことのできない歌詞に見合うレベルにまで持っていきたかったということがある。
ビリヤード場、深夜、悪い仲間とつるむこと。こういったことは青年時代を無駄にしたことを意味するだろう。しかし、一般的な教育の制約の外でやってきた人間の場合はどうなのだろう。ボブ・ディランは十代の頃、ミステリアスな文学の巡礼を続けたが、人々は彼のことをどのように考えていたのだろう。
誰かの頭の中で起こっていることは、どんなシステムを使っても測定できない。誰からも小突き回されることなく、文章や言葉の達人になるというのはどういうことなのか想像してみてほしい。
このように青年時代を無駄に過ごしたことで、あるいは有効に活用したことで、ボブ・ディランはいかなる指導も受けずに博士号のレベルにまで達し、作詞の国宝にまでなったのだ。(略)私はこの当の人物と一緒に過ごせたことをありがたく思う。
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ブライアン・イーノは言った。「自分の持っているシンプルなツールをマスターして、自分の音楽を作れ」と。
このフランス系カナダ人(ラノワ)は、子供のとき、兄のボブと一緒に母親の家の地下室にレコーディングスタジオを立ち上げて、その後、数百枚ものアルバムを作ったのだ。彼は何か知っているに違いない。フィールやリズム、割れた音やバズノイズ、磁場について。
「お前にはできないよ」と言われたとき、それが間違いだと証明することを知っているに違いない。にっこり笑いながらも何とか裏口から入り込むのだ。
人を助け、アドバイスを与え、見返りを考えずに自分の全てを与える。そうすればある日、レコード・プロデューサーと呼ばれるようになり、依頼がくることを知っているに違いない。